困ったCMがあった | 行列のできないブログ( 本当は、行列の途切れないブログ )

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2011年9月に「家庭菜園ブログ」としてスタートしましたが、いつのまにか道を踏み外してブレまくり、野菜作りとは何の関係もないことばかり書くようになりました。なお、このブログには農薬と化学肥料は使用しておりませんので、安心してお読みください。

 

 そのファミレスの窓から、2車線の道路を挟んで「家庭教師のトライ」という看板と事務所が見えていたからだと思うが、私の隣のテーブルで昼食を食べていた若い会社員ふうの男女の、男性のほうが、次のようなことを女性に言った。

 「もう10年以上も前のことだけど、家庭教師のトライのCMで、マザー、エムを取ったらアザー、他人です、って言っていたのを覚えてる?」

 女性は答えた。

 「うん、覚えてるよ。けっこう何回も流れてたでしょ」

 「俺、思ったんだけど、エムを取ったらのエムって、いったい何だろう」

 「えっ? あのエムに何か意味があるのかな」

 「わからない。たぶん、ないと思うけど」

 

 

 私も、あのCMの「エム」に意味などないと思う。

 もしあるとすれば、さしずめそれは「間違い」という日本語をローマ字で書いたときの最初のエムか、あるいは「 mistake ミステイク」の頭文字のMである。

 なぜなら、あのCMでナレーターが言っていたことは完全に間違っていたからだ。

 家庭教師を派遣する学習関連企業の広告でありながら、あのテレビ・コマーシャルは視聴者に嘘を教えていた。

 

 

 このところ私はブログから遠ざかっていたので、というか忘れていたので、というかサボッていたので、菜園の雑草取りが早めに終わった今日、久しぶりに何か記事でも更新してみようかと思い、アメーバの「ブログを書く」のページを開いて、家庭教師のトライのCMをネタに英語関連の雑文を書くことにしたが、このCMの映像が YouTube で見つからなかったら何か別の記事にしたほうがよさそうな気がしながら、とりあえずネットで検索してみたところ、それはしっかり YouTube に投稿されていた。

 以下がそのコマーシャルである

 

 

 

 

 とりたてて英語に詳しい人でなくとも、other という英単語が「他人」という意味ではないことは、英和辞書を引けばすぐにわかる。

 other には2つの用法があり、ひとつは「~とは別の」や「~の他の」という意味の形容詞で、もうひとつは、「~とは別の物または人」という意味の代名詞である。

 そもそも「他人」は名詞だが、英語の other は名詞ではないし、いわゆる「自分とは何の関係もない人」や「血縁も地縁もない人」というニュアンスは、この言葉にはまったくない。

 日本語の「他人」に完全に対応する英単語はないが、非常に近い意味を持つ名詞は stranger (ストレンジャー)である。

 

 

 この YouTube 動画のコメント欄には、どこかの誰かが投稿した「他人は others です」という文があって、複数形にすれば問題がないようなことも書いてあるが、厳密には人称代名詞としての others も「赤の他人たち」という意味ではなく、「~以外の人たち」というニュアンスである。

 たとえば You should be more kind to others. という文であれば「君はもっと他人に親切にしたほうがよい」と訳せば必ずしも間違いとはいえないが、ここでの others は自分の日常や人生で自分と関わりを持ってくる人たちという含みであり、つまり、「自分に何かの形で縁がある自分以外の人々」という意味だと考えるべきである。

 

 

 

 

 こまかいことを言えば、mother の発音記号が画面に出ているが、これは語尾を伸ばさない英国式の発音を示しており、英国英語では多くの場合、語尾の r は発音されない。

 しかし、ナレーターは「マザー」と語尾を伸ばし、アメリカ英語のように発声している。

 

 

 

 

 上の画像は、私が持っている Cambridge Dictionary of American English (ケンブリッジ米語辞書)の mother の項目であり、見出し語の右側にある発音記号を見ていただけばわかるように、アメリカ英語では語尾の r を発音する。

 便宜上この発音をカタカナで表記すると「マザァ」または「マザー」であり、イギリス英語なら「マザ」である。

 ナレーターは明らかに「マザー」と言っているのだから、発音記号もアメリカ式にしたほうが良かっただろうと思う。

 英語をモチーフにしていながら、これはかなりいい加減に作られているCMなのである。

 

 

 いずれにしても、日本語の「他人」という言葉をどんなに拡大解釈したところで、この家庭教師のトライのコマーシャルにある「 other 、他人です」というセリフは完全に間違っているのだが、この会社では other を「他人」だと教えているわけではなく、おそらく先生たちは正しい意味や用法を生徒たちに伝授しているはずである。

 では、いったいなぜこのようなデタラメな情報が繰り返しテレビでお茶の間に流し続けられたのか。

 おそらく、このCMを制作した担当者たちの「思い込み」に、その理由を求めることができると思う。

 

 

 テレビ・コマーシャルに限らず、どのような形態であれ企業の広告が目指すのは売り上げを伸ばすことだろう。

 特にテレビの場合は何千万人の消費者が対象になるのだから、その経費は莫大な金額になる。

 そして、その出費に見合うだけの見返りが必要であり、いわゆる最大限の費用対効果を実現すべく、どのようなCMにするのか慎重に企画が練られるだろうし、広告代理店の関係者たちが知恵を振り絞ってアイデアを出し合うはずである。

 ひとつの企画をもとにいくつかのパターンの候補映像を作り、その中から放映用を選ぶケースも多いと聞く。

 そして、家庭教師のトライの場合、最終的に放映に使われた作品が「マザー、エムを取ったらアザー、他人です」という馬鹿げたCMである。

 

 

 このCMのターゲット・マーケット(ビジネス標的、目標市場)は、いうまでもなく中学生や高校生、あるいはその保護者達である。

 そしてこのテレビ・コマーシャルは、これらの人々にいったい何を伝えたかったのか、何を訴えたかったのか、何を感じて欲しかったのか。

 つまり、家庭教師のトライとはどんな組織だと、ターゲットたちに思わせたかったのか。

 その答えも、「マザー、エムを取ったらアザー、他人です」というナレーションの中にあると思う。

 

 

 おそらくこのCMを作った人々は、英語の mother からMを取ったら other になるというアイデアを非常に気に入ったのだろう。

 とても斬新で気の利いた発想だと思い込んだのかもしれない。

 そして、このCMを観る視聴者たちも、同じ印象を持つはずだと考えたのだろう。

 いわゆるイメージ戦略といわれる、これは広告の作り方であり、一種の心理誘導である。

 生徒への教え方の特色などを具体的に紹介するのではなく、家庭教師のトライという会社に対して、他の数ある進学関連企業とは何かが違う、トライにはユニークな空気がある、という漠然としたイメージを視聴者の意識に刷り込むことが、この広告の目的である。

 

 

 はたして、その try (トライ=試み)がどれほど功を奏したのかは私にはまったくわからないし、このCMを流した場合と流さなかった場合では、トライを選んだ生徒の数にどれほどの差があったのかも謎である。

 今となってはすべてが過去のことだ。

 ともあれ、視聴者や消費者の感性に訴えかけようとする種類の広告自体は別に珍しいものではないし、そのようなコマーシャルの1本としてこの家庭教師のトライのCMは、実にくだらない部類の作品に入ると思う。

 

 

 テレビで初めてこのCMを観たとき、私は、これはすぐに放映が打ち切りになるような気がした。

 先にも述べたような理由で、内容がデタラメだったからだ。

 いうなれば「トライ、トを取ったらライ( lie =嘘)です」である。

 マザー(母親)からMを取ったら他人です、というナレーションにしても、親子関係というものを否定的に表現しているようで、母親なんてしょせんは他人みたいなものさ、とでも言いたげな不愉快な響きがある。

 全体として、けっこう問題の多いCMのように思えたわけである。

 

 

 しかし、放映中止になることはなく、その後も幾度となくテレビの画面に流れていたように記憶している。

 other の訳語の間違いに関していえば、ほとんどの日本人は英語の知識などなくとも生活に支障はないのだから、other が他人という意味ではないことをわかる必要はないし、わかる人は少数派かもしれないので、その少数派への配慮が疎(おろそ)かにされても不思議ではない。

 イメージ戦略では、当然ながら大多数の潜在顧客候補への訴求こそが肝心である。

 

 

 そもそも広告ビジネスの世界では、少数派は無視されることが多いと思う。

 たとえば、家族全員で仲良くどこかへ出かけるCM映像を作る場合、パパとママと子供たちを画面に登場させることになるが、世の中には父親のいない子供や、母親のいない子供、あるいは両親ともいない子供もいる。

 そのような子供たちは、パパとママがそろった家族の楽しげな様子をテレビで観たらどんな気持ちになるだろうか、などということを考えていたら、広告は作れないわけである。

 基本的に広告というものは、すべての人間に気に入られることはないはずだ。

 

 

 ちなみに、テレビで放映が開始されてすぐに批判や苦情が殺到して打ち切りに追い込まれたCMは過去にたくさんあるようで、「放映中止テレビCM YouTube 」というワードで検索してみると、けっこう多くの動画が投稿されている。

 私は興味本位で何本か観てみたが、このような動画を観ていて少し気になったのは、いったい誰がこのようなCM集をネット上に投稿したのだろうかということである。

 放映中止や禁止になったテレビ・コマーシャルは、一般の人には入手できないはずだからだ。

 おそらく広告やテレビの業界に関係のある人々が投稿したのではないだろうか。

 

 

 本題に戻るが、家庭教師のトライのテレビCMの他に、もう1本、英語に関する間違った情報を伝えていたCMがあったので、それについても書いておくことにする。

 駅前留学というキャッチフレーズで知られる英会話学校NOVAの、それはテレビ・コマーシャルで、これもやはり10年ほど前に何度も流れていたと思う。

 このCMでは、その中に使われていた英文の和訳に大きな問題があった。

 以下の YouTube 動画がそのコマーシャル映像である。

 

 

 

 

 

 I wish I were a bird. という英文を、このCMに登場する英語教師は「もし私が鳥だったら」と和訳しているが、この訳は完全に間違っている。

 この英語は「鳥だったらいいのになあ」という意味であり、I wish I could fly like a bird. 「鳥のように空を飛べたらいいのになあ」という願望を表現しているのだと思う。

 つまり、これは話し手の非常に前向きな意向や憧憬などを述べた文であり、ひとつの文章として完結している。

 

 

 しかし、「もしも私が鳥だったら」は、単なる仮定の状況を表わしているだけで、「もしも私がナメクジだったら」や「もしも私がミミズだったら」と同じ構造である。

 文章として完結もしていないので、話者がいったい何を言おうとしているのかが判然としない。

 たとえば地面の上に1匹のミミズがいたとして、「もしも私が鳥だったら、私はこのミミズを食べるだろう」ということも考えられる。

 つまり、「鳥だったらいいのになあ」と「もしも私が鳥だったら」は、性質も趣旨も異なる別種の日本語である。

 

 

 家庭教師のトライのCMに比べれば、NOVAのそれは放映中止になってもおかしくないほどの問題を含んでいるわけではないが、誤った情報を視聴者に伝えていたことは事実である。

 たとえば、どこかの学校のイジワルな英語の先生が、テストで I wish I were a bird. の和訳を答えさせる問題を出したとしたら、「もしも私が鳥だったら」と書いた生徒は点数をもらえないことになる。

 これは other の意味を問う問題に「他人」と解答した場合も同様である。

 

 

 もしもアメリカだったら、つまりこれがアメリカの場合だったら、そしてテレビ・コマーシャルが嘘を伝えたために何らかの不利益を被(こうむ)った生徒や人々がいたとしたら、間違いなくその人たちは関係各社を相手取って民事訴訟を起こすだろうし、おそらく賠償金を勝ち取るだろう。

 それを考えれば、日本はなんとも呑気(のんき)で平和な国である。

 テレビのCMをめぐって損害賠償を求める闘争が起こったという話はあまり聞かない。

 これはこれで、とても喜ばしいことだろうと思う。

 平和は大切である。

 日本がいつまでも平和な国であってほしいと願う。

 ただ、テレビ・コマーシャルが間違った情報を発信することと、社会が平和であることは、まったく別の問題である。