春の嵐が薄紅色のメッセージを | 行列のできないブログ( 本当は、行列の途切れないブログ )

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2011年9月に「家庭菜園ブログ」としてスタートしましたが、いつのまにか道を踏み外してブレまくり、野菜作りとは何の関係もないことばかり書くようになりました。なお、このブログには農薬と化学肥料は使用しておりませんので、安心してお読みください。


花見した? ブログネタ:花見した? 参加中





 今日の午前中は、小型の台風を思わせるような強風が、私の町に吹き荒れた。
 雨の日曜日になるかもしれないなと思いながら、空を見上げるためにガラス窓を開けたとき、かすかに赤みを帯びた小さな何かが、どこからか飛んできて、私の部屋の中へ入ってきた。
 弱々しくひらひらと舞ったあと、それは床の上に静かに落ちた。
 桜の花びらだった。





 私の家の近くの公園に、数十本のソメイヨシノの樹があって、満開の時期には、毎年たくさんの人が花見に訪れる。
 窓から入ってきたこの花びらは、その数十本のうちの一本から飛んできたのだろう。
 単なる偶然で、私の前に落ちただけである。
 しかし、そうではないかもしれなかった。
 ただの思い過ごしだろうが、何かの意味を、または意思を、私はこの花びらに感じたような気がした。


 この公園の桜は、二週間ほど前に一番の見頃を迎えていたが、今年に限って私は、それを眺めに行かなかった。
 満開のちょうどその頃は、毎日のように小雨が降ったり、空がどんより曇っていたりしたからだ。
 無数に美しく咲き誇る桜の花の背景に、悲しげなグレーは似合わない。
 やはり桜のうしろには、四月の澄んだ青空を見たかった。


 そんな勝手な理屈で花を観に行かなかった私に、この花びらは何かを言いたそうだった。
 何かを訴えかけているような気がした。
 なんとなく、そんな思いにとらわれてしまった。
 「見頃は終わってしまったけど、まだ少しだけ花が残っているから、それを観に来てよ」
 たぶん、床の上の花びらは、そう言っていた。





 春だから、粋人を演じてみるのもいいだろう。
 風の勢いもだいぶ弱まった午後に、私は公園へ出かけた。
 遅ればせながら、花見を楽しんでみよう。
 幹や枝を覆いつくすように咲いていたはずの花たちは、今やそのほとんどが土の上や草のすき間で枯れ始めている。
 しかし、いまだに残っている花も少しだけあった。
 あの一枚の花びらが言っていたとおりだった。





 ウォーキングや犬の散歩をする人たちの姿はあったが、もはや盛りを過ぎてしまった桜を観るために、この公園を訪れる人はいないようだった。
 一年のうちの、ほんの数日間だけの栄華は、もうそこにはなかった。
 たとえば真夏の夜の花火大会が、ひと時の儚(はかな)い夢のような出来事なら、春先の桜も同じようなものだろう。
 夢が消えてしまう前に、その場所へ行き、スペクタクルを目撃しなければならない。





 ぽつりぽつりと残っていた花たちは、どこかしんみりしているように見えた。
 私はそんな淋しげな花たちを、しばらく眺めてみた。
 「ありがとう」
 どこからか、そんな声が聞こえたような気がした。
 こちらこそ、ありがとう。
 たまには、こういう花見も悪くないよ。