ぼくは民間の環境NGOで、市民向けの研修会を開催する仕事をしている。地域の子どもたちに自然のことを伝えるボランティアリーダーの育成や、地域で自然の調査をするボランティアの育成などが主なテーマだ。


イベントや市民向けの研修会の講義などで「暮らしの中で野鳥を見ることを楽しみましょう。」というお話をすると、ありがたいことにお話を聞いてくださった方々は「うらやましいですね!私もそんな生活がしたいです。」といってくださることも多い。


 そういうとき、ぼくらはさぞかし休日でも野鳥ばかり見ているのだろうと思われている。だが現実は少し違っていた。


 恥ずかしい話しだが、そういう話をしているぼくたち自身が、実は休日もイベント等の仕事に追われてなかなか自然の中へ出かけることができていなかったり、家族と自然の中で過ごすということもままならない生活を送っていたりすることが多いのだ。


ぼくはプライベートでは、世の中の他のお父さんと同様、7歳と2歳の女の子をもつ父親である。子どもが産まれた当初は、できるだけ自然の中で伸び伸びと育てたいと思っていたし、子どもと一緒に野山をフィールドに駆け回る姿を想像していた。


 しかし、気がついてみるといつのまにか休日には買い物に出かけ、家でごろごろするだけで時間がすぎてしまい、想い描いていたような子どもと自然の中へ出かけていく生活からはかけ離れたものになっていた。


そんな生活をしている時に、ふと「自分の子どもは自然嫌いになっているのではないか」と気付いた。

 上の娘が4歳のときに、ぼくと妻と娘の3人で歩いていて、たまたま通りがかった街路樹にくっついていたセミの抜け殻が目にとまり、手にとって娘に手渡そうとしたのだ。


 ぼくにしてみれば、いつもやっているごく自然なふるまいだった。しかし、娘はとたんに顔が引きつって、身をよじるようにしてつないでいた手を振りほどき、妻の影に隠れてボクをにらんでいた。まるでぼくが意地悪をしたと言わんばかりに。


またあるときには、マンションの部屋の中に一匹の蛾が迷い込んできて壁にペタっととまった。これを見てまたまた激しい拒否反応を示した。休日に車で山中湖のキャンプ場に行った時にも、せっかくの散策路を歩きたがらなくて、室内でじっとしている。

こういうわが子の様子を見ても、最初ボクはにわかには信じられなかった。「うちの子に限って・・・」など言いながら目の前で起こっていることを打ち消してみたりもした。


 しかし、思い返してみると、心当たりはあった。知り合いの少ない地域で初めての出産を経験し、ただでさえ慣れない子育てに奮闘する妻に、一人で子どもを自然の中へ連れて行く余裕などあろうはずもなかった。

 

 したがって、どうしても部屋の中での遊びが多くなり、散歩に行くとしても、近所の小さな公園へ行って、そこにある砂場で遊ぶのが関の山だ。その他の運動といえば駅前のスーパーに買い物に行くくらいのものである。


 これ以上のことをしようと思えば、それはぼくが担当するべきだろう。他の家庭の子どもたちを自然の中へ連れ出している間に、自分の子どもは自然の中で遊べない子どもになって成長しかけている。なんという皮肉な話だろうか。

 我ながら自分の愚かさを思い知らされたような気がした。せっかく仕事で得た知識や技術を、自分の家族に対してまったく還元することができていなかった。このままでは、ぼくは家庭人としても中途半端だし、NGOの職員としても世間に対してウソを言っていることになるのではないだろうか。

 

 自然と親しむことが人生を豊かにしてくれるということを、自らが証明して見せていかなければ、話す言葉に説得力が生まれないのではないか。そんな思いが頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。


トコロジストという言葉と出会った時期、ぼくは自分が人様に話している言葉と、自分の普段の生活に開きが出ていることに焦りを感じ始めていたのだ。


これが、ぼくがトコロジストにひかれた理由の一つだった。