呉羽線 トヨタモビリティー富山Gスクエア五福前《五福末広町》~富山大学前(その1) | う、うまれるっ!(第六ステージ)

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トヨタモビリティー富山Gスクエア五福前《五福末広町》(とよたもびりてぃーとやまじーすくえあごふくまえ/ごふくすえひろちょう)停留場に到着です。

この停留場、日本一長い名称として、世間に名を轟かせているわけですが、私が取材した2019年9月時点では、富山トヨペット本社前《五福末広町》(とやまとよぺっとほんしゃまえ/ごふくすえひろちょう)を名乗っていました。ネーミングライツ制度を採用したものです。そのため、富山トヨペットが組織変更を後年に行なった際に、現在の名称になったのが2021年(令和3年)1月1日の事です。

 

それ以前にも諸々の状況変化に応じて幾度となく停留場名を変えています。それは後述します。

更に停留場名だけでなく、接続路線の統廃合がたびたびあり、現在の姿とは違う設備も多数存在しました。

停留場自体の開業は、1916年(大正5年)11月22日と、呉羽線が開業した時期に当初から設置されたもので、当時の停留場名は、新大橋西詰(しんおおはしにしづめ)を名乗り、停留場の位置も、もう少し橋に近い(約120m東側)でした。最初の名称変更は1937年(昭和12年)に富山大橋西詰(とやまおおはしにしづめ)になるのですが、当停留場に垂直に接する形で、1926年(大正15年)に越中電気軌道(後の射水線)が駅を設置し、駅名を聯隊橋(れんたいばし)としました。単なる乗り換え場所とせずに、線路を接続し、市内線への直通運転を程なく開始します。聯隊橋が新富山(しんとやま)に改称された1934年(昭和9年)時点では、まだ初代の名称のままでしたが、戦時の交通統合により、富山地方鉄道が発足した際に統一性を持たせるために、時期は不詳ですが、新富山駅前停留場に変更されます。

しかし、射水線が1980年(昭和55年)で全廃となり、駅前停留場と言う事情に合わなくなったため、新富山停留場に改称。更には新と言う表現も似つかわしくないため、地域名に則した五福末広町にする案も浮上する中で、ネーミングライツ制度が始まり、現在の名称の土壌が出来上がりました。

最終的に五福末広町は副称として残ります。

画像の停留場の姿は2012年の現在の富山大橋の竣工に合わせた近代化によるものです。

 

停留場に低床車両が入線です。2019年の取材時点では富山港線との直通運転はなかったので、この低床車両は市内線の近代化のために導入されたものです。

 

加速して、富山大橋に向かいます。廃線になった射水線が存在した場所は、画面奥のマンション辺りです。架け替えになる前の富山大橋に繋がっていましたから、単線による接続でした。