☆この記事は、
2003年3月に別サイトで和紗というペンネームで公開したものに
加筆訂正を加えています。
四季仲間…と言うより、
私を劇団四季にはめた張本人(……と言うといつも「はまったあんたが悪い」と言うんだけど)のKちゃんから小包が送られてきた。
中身は、先日見逃した『アンドロマック』のビデオと『ウエストサイドストーリー』『ジーサスクライストスーパースター』のCDだった。
以前から聞きたいといっていたのを覚えていてくれたらしい。
ちょうど年度末の修羅場の真っ最中。
神経はぴりぴりと音をたてている状況、
「これはやばいかもしれない」と
自分の精神状況に当の本人ですら危機感を募らせているところだった。
そこで、気分転換に…とBGMに選んだのが『ジーサスクライストスーパースター』だった。
実はこの作品、中学生の時“芸術鑑賞”とか言う名目で全校で市民会館まで見に行ったことがある…らしい。
今思うとかなりもったいないと思うのだが、当時の私にはその価値はまったくわからず、
会場へ向かう途中に友人との間でおきたトラブルで頭がいっぱいで、舞台を集中してみていなかったようだ。
覚えているのは、開演間近までホールで泣いていたこと、
舞台の上で大八車(だと思うのだが)が走り回っていたこと、
そしてクラスメイトがこの舞台でジーサス役の人に惚れ込み四季の会に入会したこと(彼女はその後1年くらい ♪ジーサァスクラァーィスト…♪と教室でよく歌っていた)…の3つである。
が、意外に体は覚えているもんだ…とCDを聞いて思った。
とは言っても舞台を覚えているのではないかもしれない。
少し前NHKのBSで映画版を見たからだろう。
20曲余りの曲のうち3分の1くらいは耳になじみあるような気がする。
これはいいや…と修羅場の真っ最中パソコンを打ちながら2度、3度と繰り返し聞いていたら完全にその世界にはまり込んでしまい、
通勤中も頭の中で音楽がまわっているような状況になった。
舞台の背景は混沌とした救いのない、ローマに占領されたユダヤの国。
自らの文化も否定まではされてなくても、圧迫されていたのだろう。
自由を、そして豊かな生活を!という思いはおそらく誰もが持っているであろうそんな時代。
混沌としたその時代は、ある意味現在の日本と似ているようにも思える。
ローマが「飴と鞭」という相反したもので人々を支配したように、現在も「一見豊かだがどこか鬱屈とした」という矛盾に満ちているような気がする。
それぞれが信じるものを見失い、
だからこそ人々は何か支えになるものを探し、現れたそれに迫る。
そんな感情は、現代の私たちに通じる。
ユダヤの人々が見つけたのが“ジーザス”だった。
そして、“ジーサス”に救いを求めたのはユダも同じ、
いや、誰よりも強い思いをもっていたのだと思う。
彼は当初ジーサスに純粋に思いを寄せ、自ら正しいと思う道を彼に見たのだと思う。
ジーサスを取り囲む人々の中で、最もジーサスの中にある“何か”を信じすぎただろうこそ、
ユダは彼に対して失望したのだと思う。
ユダのジーサスへの愛は、自分でも信じられないくらいまっすぐで純真で、止められないものであったのだろう。
だからこそ、ジーサスに失望したとき「彼のためだ」と叫びながらも彼の滅びを望んだのだろう。
愛も憎しみも…狂信的なまでにユダに迫っていく。
その狂気にうなされるようにユダはカヤパにジーサスを売る。
自分の“正義”を信じて。
ユダがそしてジーサスが一途であるがゆえに反発しあったとき歪みは大きくなり、
その歪みは周囲にいる人を飲み込んでいったのだろう。
そして、狂信的に“ジーサス”をあがめていた人たちほど
ユダとジーサスの“思い”の渦に飲み込まれやすかっただろう…と思う。
結局とらえられたジーサスに対して「彼に死刑を」と叫び嘲るのは、
ジーサスを神と崇めていた群集たちだった。
崇めることと嘲ること。
相反する姿だがその姿はどちらもあまりに自分たちの欲求を正直に出していた。
自分たちが夢の“偶像“として見ていたジーサスはまた憎しみの“偶像”でもあったのだろう。
“偶像”はいつか壊れなければならなかったのだろう、人々の狂気と共に。
この作品でのジーサスは、かなり人間的に見える。
ジーサス役の鹿賀氏の演技がそう思わせるのだろうか。
怒りも悲しみも悩みも直情的に表す。
はっきり言って短気すぎる。
怒りの声をあげ、時としてユダを責め、追い詰める。
私が聖書から受けた印象とはまったく違う。
特に“死”の絶望を乗りこえるまでの苦しみ。
苦しみながら神を否定し狂おしいまでに生を望み、そしてその絶望の先に「私に今こそ死を」と望む。
ひょっとしたら人間としての彼はこうだったのではないかと思うくらい、
私は、この鹿賀氏のジーサスが気に入っている。
気に入っているといえば、このCDの中でのお気に入りはヘロデ王。
かなり個性的な面々の曲の中でも強烈なインパクトを持っている。
はっきり言って陰湿だ。
ネチネチとジーサスをいたぶってくれる。
ヘロデ王は、はっきり言ってジーサスのおこした奇跡を信じてはいない。
ただ“ユダヤの王”たる自分の地位を脅かす厄介者として彼を見ていたのだと思う
(ちなみに新約聖書でイエスが生まれたとき新生児を皆殺しにしたヘロデ王はこのヘロデ王の父親だという)。
その厄介者が自分には手も足も出せないように拘束されて目の前に現れた。
何でも彼は石をパンに変えたり湖の上を歩いたというではないか。
なら“王”たる自分の退屈な時間を楽しませてもらおう。
どうせこの惨めな男は何も出来ないんだから、彼ををいたぶって楽しもうじゃないか…
そんなふうに思ったのではないか。
だからこそ、ヘロデ王は堂々と歌うほかの人と違い、囁くように…と言うよりはヒソヒソと、
でもいたぶるように歌う。
その姿にジーサスに対する自己主張はない。
ヘロデ王の小心さとずるさも感じるのだ。
そして。
ヘロデ王は自分でもわからないまま自らの言葉に我を忘れて、
狂ったように彼が“在る”ことを否定する。
あたかもジーサスのそしてユダの狂気が彼に乗り移ったかのようだった。
そこで初めて、彼の主張を感じるのはわたしだけだろうか?
狂気を表すことでやっと“ヘロデ”という人物が見えてくる。
そんなふうに感じるのは、ひょっとしたら自分の中にヘロデ王のような一面があるからかもしれない。
仕事をしていても、時々『ジーサスクライストスーパースター』で歌われる曲…
ユダやヘロデ王のナンバーが頭の中を回る。
一緒にこっそり口ずさみ、ニヤッと笑ってしまう。
結局、人間は誰しも狂気を心の中に持っているのだろう。
それが、時として体から流れ出て“時代”の流れにをつくり犠牲を…求めるのだろう
……狂気”をはらんだ者に人々を支配させ、世の流れをつくり、同じような“狂気”を持った生贄を求める。
否、生贄はどんなものでもいいのかもしれない。
それに付加価値をつけるのは、後世の人の仕事。
ただ、自分たちと同種の“狂気”を持っているほうが持ちあげやすいというのはあると思う。
“狂気”は醜い。
でもどことなく、“ジーサス”と”ユダ”に関わっていった人々を見て共感でき…魅力を感じるのは、
何かそこに『美学』があるからではないかと思う。
平穏に生活していては決してお目にかかることの出来ない美学。
それは、多分に魅力的であるが自らを破滅に追い込んでいくのだろうけど。
こんなふうに感じながら、修羅場を終えた今日も、BGM にこの曲をかけている。