このブログは僕のものだけど
この文字
この文章
は果たして、、
言語行為論によるコンスタティブ、またはパフォーマティブな側面に頭を悩まされる人々がいる中で、
ラカンの精神分析理論としての想像界、現実界、象徴界といったアンチオイディプスを念頭に置いたフィールドによる認識だけではまだこと足りない、
ソシュールの言語学としてのシニフィエシニフィアンを準えてもなお捉えきれない領域の中に確かに存在するこの問題について
一番言いたいことは
著者が必ずしも僕である必要はない
僕の想いは
ただそれだけが伝わることはないのかもしれない
言葉は誰のものでもないから。
批評家が書評をするように
難しい事を言う人に
気難しいが取って代わる
純粋思考と表現の多様さがかえって混乱を招くその瞬間
静かに沈黙をする選択をとらざるを得ない時がある
こんな文を書いている僕が一番なにも理解していないことであったり、
ここを通じて繋がっていたいなんていう気持ちだけを
こんな文字で伝えなくてはならないのならば
書くことはもはや伝えることじゃない。
ましてや日記なんかに。
日記は日記らしく
鈴木のことや
山下◯子のこと
など書いていればいい。
今日はこれでいい。
これでまた日記を
書きやすくなるのなら