まあ、現在の過ぎ行く「世」というのはサタンが人間を何とか一人でも多くエホバの主権から遠ざけたいので、魅力的なモノ、魅惑的なモノ、蠱惑的なモノで世界を埋め尽くしているので、「今の世の方が絶対楽しい!住むところと、食べるものと、着るものだけしか与えてくれないなら、エホバなんか要らない!」と思う人はまさに終わりの世にサタンに足を引っかけられて健全なモノすべてのモノが手に入らなくなるところまで墜落するんだと教えられているけれど、本当に神から与えられる健全なモノって掛け値無しで(・∀・)イイ!!と本当に思うモノだから、サタンの魅せる砂上の楼閣に惑わされている人はこんな「薄い幸福感」で「満たされている!」と思っていて、後で本当に見せられるエホバ神の祝福がどんなモノなのかなんて気にしないんだろうな。

 

今、自分がしていることがどんなに虚しいかとか考えたこと無いんだろうな。

聖書によれば、ルカ12章の例え話がぴったり当てはまるのではないでしょうか。

 

「ある裕福な人の土地で作物が豊かに実りました。 17 そこでその人は心の中で考え始めました。『どうしようか。作物を集める場所がない』。 18 その人は言いました。『こうしよう+。倉を取り壊して,もっと大きいのを建て,そこに穀物などを全て集めるのだ。 19 そして自分に言おう。「おまえはたくさんの良い物を何年分も蓄えることができた。楽にして,食べて,飲んで,楽しめ」』。 20 しかし神は言いました。『無分別な者よ,今夜,あなたの命は取り上げられる。そうしたら,蓄えた物は誰のものになるのか+』。 21 自分のために宝を蓄えても,神から見て裕福でない人はこうなるのです+」。

 

イエスの例え話の中で私が一番( ゚д゚)ハッ!としたお話でした。

貯めても貯めても気が済まない人。

部屋を飾っても満足しない。山のような本を積読しても。ゲームもより没頭できるモノに。家を建てても満足せず。家の中は豪華なのにその中で株やFXや投機に熱中して、それに飽き足らず、「もっと豪華な家を!もっとリアルなゲームを!むしろもっと現実に富める方法を!」と、どんどん欲深になっていく。

むしろ私の宗教を「ああ、猫の缶詰が安くなる宗教ねw」と、嘲る。

 

けれど、あなたは満足しない。

お金を貯めても、土地を買っても、女を買っても、家を建てても、子供をもうけても、孫の顔を見ても「後世の自分の血を受け継ぐ者たちの為に十分な財力を!」

 

しかし、いつかは「あなたの命は取り上げられる」。

永遠の命は「あなた」の代わりに子や孫に与えられる。

しかし、あなたは眠る。子や、孫も。

後世の後世のそのまた後世まで、永遠に。

 

乞食のような私たちは、今の世ではなく、神に洗わて清くされた新しい世で生きる。今の世で精々、群衆(モブ)である私たちは、ゆっくり世に浸透して仲間を増やす。業を止めよとエホバが告げる時まで必死に楽園に入る見込みがある人を世界中、隅々まで探す。主イエスを通して柔和な仲間にふさわしい人の右手を引いてエホバのところに連れて行く。聖書の学びの清さに惹かれて其処に留まる。その人はエホバの灯した灯りの道を、つまり狭い道を通り、きっと海辺の砂のように増えた仲間のひとりになって、喜びの光を受け、狂喜する。

その人の生きる時間はもはや数えられる時間ではない。永遠だ。永遠だ。

 

お金を増やすなというワケではなく、孫に残すお金を惜しめと言っているのではなく、バランスを考えるのは大事なコト。私が言っても「詮無い事!」と言われるだろうが、あえて私のような人間だから、言う。悔い改めたから、言う。

毎日、麦茶飯しか食べられなくても、着回しする服に困っても、家賃を急かされても、新聞屋に貶されても、「こんな生活しか!」とは言わない。だって毎日三食食べてるもの。集会に行くのにふさわしい服ははぼはぼ決まっているけれど、高価なドレスを買っても着ないもの。麦茶を飲みながら涼しい部屋で神の言葉の追及ができるもの。こうしてパソコンも使えているもの。目指すものは「WEBクリエイター!」と、言って憚らない私だけれど、それが宣教するようになっても続けられる仕事だと確信しているから、今のうちに苦労してでも、身につけるの。

 

今日も狭い道の追及ができた。

自分を低く、限界を認めて、謙遜に働けたら、それが一番幸せな道。

どんな人も惹かれる、「サタンが照らす偽物の光」とは正反対の「神が照らす真理への道」。

今日も歩もう。