「政宗よ永遠に」 独眼竜 伊達政宗 9 最終回 | 酔想 『歴史・雑学・お酒・本・パソコン・時事通信・etc』

「政宗よ永遠に」 独眼竜 伊達政宗 9 最終回

政宗鎧
  
 
 では、「猿と竜のばかし合い 」の続き
です。

 かなり、間があいてしまいましたが、
スクラップブックの「歴史 つれづれ綴り
で見れば、続けてみられるので良しとしま
しょう。(^_^)

 秀吉は死ぬ前に、
「五大老 五奉行 三中老」に
後事(秀頼)を託しました。

 備忘のため、記しておきます。

 「五大老」
徳川家康(256万石) 前田利家(83万石) 毛利輝元(120万石) 
宇喜多秀家(57万石) 小早川隆景(33万石)
(のちに、小早川隆景の死後には、上杉景勝(120万石)が、
前田利家の死後には、利長が、その跡を継ぎました。)

 「五奉行」
石田三成(19万石) 浅野長政(30万石) 前田玄以(5万石) 
長束正家(5万石) 増田長盛(22万石)

 「三中老」
生駒親正(17万石) 堀尾吉晴(12万石) 中村一氏(14万石)

 しかし、ご存じのように
秀吉の死後、また世は乱れ、家康の数限りない盟約違反の果てに、
「関ヶ原の戦い」「大阪冬の陣」「同 夏の陣」へと・・・。

 家康が、「天下一の律儀者」「律儀者の内府殿」から、
「宇宙一の古狸?」に変わる瞬間ですね。(笑)(^_^)。

 この間、政宗が指をくわえ、黙って見ていたか・・・

 そんなことあるはずないですよね。
特に、「関ヶ原の戦い」では、有名な「百万石のお墨付き」をふいに
しています。
 家康から政宗への命令は、至極簡単なものでした。

 「みだりに兵を動かさぬように。上杉軍を牽制してくれるだけでよい。」

 簡単に言えば、
「手助けはしなくていいから、お願い 動かないでね。政宗ちゃん。」
ということです。
 政宗の “ やんちゃぶり ” が、とてもよくわかりますよね。

 約束を守りさえすれば、旧領を返してくれるというのですから、
破格の扱いです。
 当時、伊達家の石高は、「五十八万石」、旧領「四十九万石」
合わせれば「百万石」を超えます。

 この約束が「百万石のお墨付き」ですね。

 何で守らなかったかな、「政宗」
政宗らしい と言えばそれまでですが、ただで手に入ったのに・・・

 動いちゃうんですよね、一揆も煽動しちゃうし、
やんちゃすぎます・・・汗(^^; ....。

 「関ヶ原の戦い」自体、あれだけの勢力がぶつかり合うのですから、
たった一日で終わるとは、誰も想像していなかったでしょう。
 その間に、「暴れられるだけ暴れまくる」
という計算が、政宗にはあったと思います。

 しかし、計算違いでした。
そして、同じ計算違いをした男が、他にもいます。

 秀吉の名参謀
「黒田如水」その人です。
「黒田孝高(よしたか)」または、「黒田官兵衛」と言った方がわかりやすいでしょうか。

 彼は、九州において兵を挙げ、破竹の勢いで周囲を席捲していきます。
そして、九州を統一後、天下を狙う野望を持っていたと言われています。

 しかし、一日で合戦が終わってしまっては・・・
彼ほどの知略家が、見誤るのですからしょうがないですよね。(笑)(^_^)。

 この話には、後日談があります。
「如水」のせがれ、嫡男「黒田長政」は、東軍に属して戦いましたが、
合戦終了後、父「如水」に こう報告しました。

 “ 家康殿は、「こたびの働き、あっぱれでござった。」と、わざわざ私の左手をとり、感謝してくださいました。 ”
と、誇らしく自慢げに。

 「如水」は、こう言ったそうです。
 “ 愚か者めが、その時おまえの「右手」は、何をしておった!! ”
と、
 “ 家康を殺せただろう ” ということですね。
策士家「黒田官兵衛」らしいです。
(策士 策に溺れる・・・(笑)(^_^)。 )

 「大阪の夏の陣」では、伊達軍は、かの有名な「鉄砲騎馬隊(騎馬鉄砲隊とも)」を縦横無尽に走らせ大活躍しますが、
 その一方で、スペインに家来の「支倉常長(はせくら つねなが)」を派遣し、自らを「奥州王」と名乗り、スペインの軍事力を利用しようとしたり、
と またまた裏工作しまくっています。・・・汗(^^;2 ....。

 これでは、徳川家康も政宗を信用できないですよね。

 秀吉と家康に、これだけ不信感を持たれて、よく家名が残せたものだと
感心してしまいます。

 「伊達六十二万石」とは、よく言いますが、経済力においては「百万石」、
なかには「二百万石」とも言う人もいるくらいですから、その勢力は馬鹿
には出来ない。
 そして、そこに政宗の「知略」と「勇猛果敢さ」が加わってきます。

 ときの権力者は、これを恐れ、認めざるを得なかったのではないか 
と私は思います。
 そして、政宗には、「権謀術数(けんぼうじゅっすう)」を用いながらも、
どこか憎めないところがあるのだと思います。

 家康も、死出の際には、政宗を枕元に呼び、後事を託しました。
政宗の「やんちゃぶり」が、心配だったこともあるでしょうが、やはり、
政宗にふさわしい待遇ですよね。

政宗キティー   やっぱり、なんだかんだ言っても

「政宗」は、かっこいいです。

 

 大好きです。(^_-)-☆
(←キティーちゃんハンカチです)

 では、これで、「独眼竜 伊達政宗」

『 大団円 』 とさせていただきます。


 最後に、政宗が晩年に書いた政宗の「漢詩」と「辞世の句」を付して

結びといたします。
 ここまで読んでくださった方々 ありがとうございました。(^_^)

馬上少年過    馬上に少年過ぎ
世平白髪多    世 平らかにして白髪多し
残軀天所赦    残軀(ざんく) 天の赦すところなれば
不楽是如何    楽しまずんば、これいかに

馬上(戦場)で、少年時代は過ぎ去り、
世の中は平和になり、私も白髪が多くなった。
残りの人生は、神が赦してくれたものなのだから
楽しまずにいられようか、大いに楽しもう。

 最後の部分を「楽しまず」と読んで、
泰平の世を、楽しめない と解釈することもあるようですが、
 私は、
“ 楽しまないでどうするの 楽しもうよ ”
の方と解釈しています。(^_^)

 そして辞世の句。

 “ 曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞゆく ”


政宗扇子  大好きな言葉です。
オーダーメードの扇子を作って

しまったくらいですから。(^_=)

 今の時代を反映しているとは

思いませんか?


 明日をも見えない陰鬱としたことが多い昨今。

 そんなときこそ、自分の信じることをよりどころに
闇の中を まっすぐな心で 突き進んでいきたいものですね。

 ではまた。(^_-)-☆