初めてのコメントにお応え下さった優しい男性と、そのブログに導いて下さった、いつもとても勇気づけられる話をお書きになる女性のブログ、その2つを合わせて読んだ感想です。
【「鬼籍に入らないで」のために考えた暗い話です。全く明るくありません!】
長い文章になると思いますが、わたしは起承転結の「結」から始まる文章が苦手なので、いつも紙の日記でやっている感じで、思ったままをつらつら書きます。
ここ数日の体調の変化に耐えることができたのは、主にこのお二人のブログの内容を反芻し、自分の気持ちを明確に言語化することを諦めなかったからだと思います。
わたしがキセキを見ることができたのは、自分が納得できるまで、二人(二つの世界)が何が言いたいのか読解することを諦めなかった「わたしの存在」に気づいた(2+1)からだと思っています。
そのことに気づいてから、いつものようにお二人のブログを行ったり来たりしているうちに、これだけは書いた方がいいのかもと思ったことがありましたので、綴ります。
お二人のどちらのブログが欠けても、わたしはこのことに気づかなかったと思われます。
大袈裟ではなく、本当にすべての皆様のおかげで、わたしは今回のことを乗り越えることができました。この場を借りて、お礼申し上げます。
どうか、読まれた方に、誤解なく伝わりますように。
キセキを見るには、「手放してもいい」を心底まで「ゆるす」ことができるかだと思います。
わたしは、色々なものを手放すために自問自答を繰り返していました。
その時に、わたしは、あるものを手放そうとした時だけは、それを手放そうと「考えただけで」今までに感じたことのない巨大な恐怖を感じると感じました。と、同時に、どうしてそれを自分がゆるさなくてはいけないのかに対する答えを、「一人で見つけることができなかったらどうしよう」と恐れ、できなかったらどうしたらいいのかわからない恐怖までが追い討ちをかけてきていることに気づいてしまったのです。
何ともまどろっこしい言い方です。今、可視化させてみれば笑えますが、この時は必死でした。
結局、わたしは、恐怖の洪水に耐えかねて、あるものを手放すことをゆるせるのかだけは、一人で見つけることができない自分をゆるしました。
そして、手放そうとしたものを手放したくない自分もゆるしました。
この状態を一人では耐えることができないと判断したわたしは、同居している母に泣きながら訴えました。
「死ぬのが怖いよう」
わたしは、「生きていなくてもいい」をゆるしてもいいかだけは、怖くて一人では答えを見つけることができなかったから、今、死んでいませんという話です。
何が言いたくてこんなまどろっこしい書き方をしているか。
要は、「死」という言葉が頭に浮かんだら、どんなに「大丈夫」と思っても、絶対に、誰かに伝えることをためらわないでほしいということです。
手術を受ける体の病が死への恐怖を感じさせるとするならば、何となく死への恐怖を感じることは、治療を受けてもいいくらいの心の病の可能性があるという想像力で、「大丈夫」を手放していいということをお伝えしたいのです。
わたしは、漢和辞典が大好きな一人の女性です。
わたしに本来の判断力があれば、女性はそもそも「丈夫」ではないことに、もっと早く気づくことができたはず、という経験をこちらに還元させたくて、一粒万倍日にブログを開設してみました。
しばらくは、治療に専念しますので、更新はしないと思われますが、時期が来れば、必ず「奇跡」のほうも綴ります。
「私は大丈夫ではありません」
この言葉が言えた私は、ようやく月が満ちて、乙女の仲間入りを果たせた気がします。
種明かしと言いますか、漢和辞典と鬼と星を結びつける豊かな発想力は、わたしにはありません。著作権法がわからないので、引用はしませんが、井上靖さんの「11月」という詩がなければ、わたしはこの文章を書けませんでした。
詩という芸術の力と、インターネットという文明の利器に心から感謝します。
ときわあさひ