ティベリウス : 自由に生きられなかった二代目皇帝 | ときたび日記

ティベリウス : 自由に生きられなかった二代目皇帝

絶景2
 やっと、カプリの海に戻ってきました。
では、カプリに居を移すまでのティベリウスの人生を振り返ってみます。

 カエサルの属するユリウス一門の上を行くローマの名門貴族、クラウディウス一門に生まれたティベリウスは、母親の奇妙な恋愛再婚にともなって、アウグストゥスに引き取られて育ちました。

少年時代、 アウグストゥスとの仲は良く、「内乱のないローマと、その実現の為の元首政」と言うカエサルの夢を、確かにティベリウスは理解し、引き継ぎました。
 ただ、カエサルやアウグストゥスとは違った所があったのも事実です。

ティベリウス2

 まず、反対勢力である元老院から見て、カエサルもアウグストゥスも、元老院がバックアップした軍隊を打ち破って、武力で権力を打ち立てたリーダーです。 それに比べれば、有能な武将であることを証明し続けたとは言っても、ティベリウスに対する態度は違います。
 また、名門貴族とはいえ平民派として旗色をはっきりさせてきたカエサルや、平民(騎士階級)出身のアウグストゥスに比べれば、ローマが王制から共和制に移った頃5千人の一族郎党と共にローマにやってきたと言う歴史を誇る名門中の名門クラウディウス家に属するティベリウスは、生粋の元老院派の家系出身と言えます。

 そして、何よりも、演技することの出来ない、ティベリウスの性格が、彼の苦悩を深めました。
 カエサルは、開放的な性格で、本音と建て前の使い分けを当然にこなす人でした。アゥグストゥスは、やや閉鎖的でしたが、公共の利益のためなら、偽善の達人でした。
 ティベリウスには、このどちらも出来なかったのです。

 最初の亀裂は、ティベリウスの結婚にアウグストゥスが干渉したことから始まります。
この時ティベリウスは、最初の妻ウィプサーニァと幸福な結婚生活を送り、一歳の息子も授かっていました。このティベリウスをアゥグストゥスは、娘ユリアの再婚相手に選んだのです。自分の血をひいた子孫を増やす為に。ティベリウスは断り切れませんでした。
 その後、ティベリウスは、ウィプサーニァの後姿を町で見かけ、人混みの中に消えるまで目で追った後、前妻と会いそうな機会ことごとく避けたという話が残っています。せつないですよね。

 次がゲルマン人相手の防衛線を巡る対立でした。
アウグストゥスは、カエサルがひいたライン川の防衛線をドナウ川、エルベ川まで東に拡大しょうとしたのです。これを任されたのが、ティベリウスと弟のドゥルースス。ところが、ドゥルーススが戦闘開始4年目で戦死します。
 この時、アウグストゥスはエルベ川河への防衛線拡大は完了したとして、ティベリウスにゲルマン人相手に行使する軍事力を与えませんでした。実際に戦線を指揮したティベリウスが必要だと言っているのに。

 こうして、亀裂は決定的になり、ティベリウスは、一切の公務を返上して、妻をローマに残して、ロードス島に引退してしまいました。大貴族の彼にしてみれば、国家ローマへの奉仕という理由以外に、激務をこなす理由はなかったのです。

 ところが7年の後、アウグストゥスの血をひく二人の若者が死にました。
 その年、アウグストゥスは、正式にティベリウスを養子に迎えます。後継者に正式に指名したという意思表示です。ただし、アウグストゥスの姪の息子、ゲルマニクスをティベリウスの養子にするという条件付きですが。

 7年前のティベリウスの言葉通り、ゲルマン人相手の防衛線は危機的状況でした。10年ぶりに駆けつけたティベリウスに前線の兵士達は、喜びのあまり涙を流して走り寄ったそうです。
「夢ではないでしょうね、総司令官、我々が再びあなたの指揮下で戦えるなんて」と。
この時代、勝敗、即ち、兵士の生死を決めるのは総司令官の能力でした。ティベリウスの軍事面の才能が高かったのが伺えるエピソードです。

貨幣

 そして、ティベリウスが55才の時、アゥグストゥスが死にます。彼の遺言状は、次の様に始まっていました。
「無慈悲な運命が私からガイウスとルキウスの息子二人までも奪い去ってしまった以上、ティベリウスに遺産の2分の1と6分の1を譲ることを言明する。」
 私の後継者は、ティベリウスだ。ただ、実の孫二人に死なれたので、仕方なく譲るのだと言わんばかり。
 皇帝の称号などどうでも良い程の大貴族に生まれ、実績も十分の55才の男にとって、屈辱以外の何者でもなかったでしょう。

 この後の23年間のティベリウスの治世は、的確で、危なげも、面白味もない物でした。
 ティベリウスは、エルベ河を放棄し、カエサルの時代のライ河=ドナウ河を北の国境線として確定しました。東のパルティア、アルメニア問題も外交によって解決。
 人材登用の妙は、ティベリウス嫌いだった歴史家タキトゥスも認める程で、ティベリウスの死後30年に渡り帝国を支えた程です。

 ただ、緊縮財政を続けたことも有り、市民の評判は悪い。しかも、いかに有能でも、きまじめな性格の為、職場とも言える元老院でも、家族との間も軋轢が絶えない。

絶景1
 耐えられなくなったティベリウスは、68才の時、誰にも告げずにカプリ島に居を移します。"家出"するかの様に。
この後、ティベリウスは書簡を送って統治する様になります。相変わらず、的確に、迅速に。

 しかし、現代だって、首相や大統領が島にこもって、通信だけで指示していたら、大スキャンダルになるでしょう。「馬鹿にするんじゅない」と思う人がいるのは、当然です。
このため、ティベリウスの評判は落ちる一方。ティベリウスが、カプリ島で淫行に耽っているだの、ティベリウスはがけの上から人を突き落とすだののゴシップを書き残した歴史家もいます。現代の研究者は、一笑に付していますが。

カプリの美しい海を見ていると、ここに居を構えた人が、そんなことをする気になるとは、とても思えません。

 ティベリウスが77才で死んだ時、民衆は歓呼でそれを迎えました。
 しかし、カエサルの夢を盤石の体制にしたのはティベリウスです。
 そして、その体制が、アゥグストゥスの血を継いでいるという理由で皇帝になった次の暴君達、カリグラやネロの時代もローマを支えたのです。

 ただ、ティベリウスが、カエサルの次の言葉を見習ったら、もっと幸せに成れたのにと思ったのも事実です。
   「何ものにもまして、私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。」

 分かり難いと行けないので、塩野七海さんの著書の中から、カエサルから第五代皇帝までの家系図を付けておきます。
 
系図