「ああ、今日も疲れた」
そう言って俺は改札を通り抜けるとちょうどホームへ最終電車より少し前の電車が滑り込んできた。だいたいいつもの場所に立って、車両の乗車口の扉が開くのを見つめていた時も、なんだか今日はとにかく忙しかったことを思い出していた。俺はがっくりと両腕を垂らしながら車両に乗り込むと、いつもよりも混んでいる座席の中に空いている場所を見つけてそこへ進んでいった。
コツン。その時だった。一歩出した足の先に何かが当たるのを感じたのは。
『なんだ。誰かがそのまま置いていった空き缶か。まったく』
そう思っている間にも、つま先にあたった缶は転がって行きそのまま反対側の乗車口扉にあたって止まった。ほんの少し大きな金属音があたりに響いたが、他に乗っている乗客は特に意識もせず、俺も無視を決め込む。
乗車口が閉まり電車が動き出す。最近の車両は静かだ。音ではなく、動き出す振動のことで、一昔のようにがたんとつんのめるような感じがまったくしない。だから俺は乗っている車両が動き出したことには気が向かず、自分の握っているスマホの画面にのめり込んでいった。人差し指で画面を上下に移動させながら記事を探していく。コツン。ある覚えある感触が、またつま先から伝わってきた。
『おい、おい。こっちに戻ってきたのか。あっちへ行っててくれよ』
俺はつま先でそっと電車の進む方向と垂直にその空き缶の位置を変えた。こうすれば、車両が減速したときに進行方向の方へ転がって行くだろう。はたして、車両が次の駅に向かって減速を始めると、その空き缶は進行方向へと始めはゆっくりと、次第に勢いがついて転がって行った。それを満足そうに見つめて視線を辺りに移すと、向かいに座っている女性客が怪訝な表情をしながら空き缶が車両の壁にぶつかってくるくる回っているのを見つめている。俺はそんなことに はお構いなしで視線を戻しながら
『よしよしいいぞ。その向きで止まれば、もう戻ってこないだろう』
とそっと心の中で呟いた。
車両が止まり、また乗車口が開く。子供の声がする。キャッキャと言いながら一緒に乗ってきた父親に、車両のすみに存在する空き缶を指差しながら何か言っている。父親はほおっておきなさいと言うような表情をその子に向けて、空き缶とは反対側の方を振り返った。その時だった。その子供はまるでサッカーの試合で敵のゴールキーパと対峙するPK選手のようにその右足を空き缶めがけて蹴りつけた。カッコーン!いい音だ。俺はそう思って音のするほうへと顔を向けた。その瞬間、その音で、何が始まった合図だったのかを理解した。こともあろうにさっきの空き缶が俺をめがけて空中をすっ飛んで来る。と、それと同時に頭の中で 響き渡る叫び声。
『ゴール!ゴール!ゴール!ごーーーーーーーーる!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
はっとして我に返る。どこにそんな運動神経があったのか今思えば不思議だが、俺は首をふっと右に傾けた。カキコクーーーン!今度は変わった音がした。俺が背にしているガラス窓に当たったからだ。ちょうど首を傾けた所に。そして、車両の窓に当たって跳ね返った 缶はそのままポトリと俺のひざの上に。ふうっと息を吐き出しながら俺はその缶をしばらく見つめて右手で持ち上げた。視線を前にうつすとさっきの女性客が下を向きながら口を片手で押さえて肩を震わせている。きっと笑いをこらえているのだろう。俺は口をへの字にして立ち上がると戦々恐々とこちらを見ている親子に近づいた。子供はいまにも泣きそうな表情をしている。父親は何か言いたそうなように口をパクパクしていたがそれを無視して俺は子供に向かって、飛んできた空き缶を高々を掲げて言った。
「YOU GET THE ONE POINT!!GOOD JOB!! BOOOOYyyyyy!」
言い終わらないうちから男の子はびっくりした顔になっていたが、すぐに笑顔になって掲げている空き缶に向かってハイタッチをするようにジャンプした。父親のほうはと言うと、口はもうパクパクはしていなかったが、眉間にしわをよせて不思議そうにしている。俺の後ろからはとうとう笑い声が大きく聞こえてきた。こんなとき子供相手に怒るのはみっともない。ましてや、地下鉄車両の狭い空間だ。ほとんどのこの車両に居合わせた乗客ほ全員が俺の一挙手一投足を見ているようだ。
「ぼく。だけど空き缶を蹴るときはごみ箱にシュートだぜぃ!」
そう言って俺はその子の頭をなでると隣にいた父親が「すみません」と小さい声で言うのが聞こえた。
とうとう缶を手にしてしまった俺はさすがに車両のどこかに置くことはできない。0.5秒で考えた俺の頭の答えはただ一つだった。缶を手に持ったままこの電車から降りることだ。そして、ごみ箱を探してそこにこいつを放り込む。仕方がない。これもこいつと出会ってしまった俺の運命なのだ。と、まるで大げさが気持ちでその考えを受け入れた。いつもの下車駅で俺はさっそくごみ箱を探した。あったとばかりに改札外のそこまで歩いてゆく。これでお別れだな。そう思ってしみじみとこの缶と出会って、何度もわかれたのにまた出会ってこうして今ここにいることを思い出す。と何か缶に張ってある。あれ、このシール。それは、この夏キャンペーンで規定の枚数をはがきに張って送ると必ず貰えるの懸賞応募シールだった。やった。後一枚で応募できるんだ。なんてラッキーなんだろうと思いながら人差し指の爪をひっかけてはがそうとしたとたん、つるりと手からその缶が床に落ちて行った。そしてカラカラと音を立てながらまた転がり始め、待てと追いかけたとたん、もう少しで手が届くその先でひょいと視界から消えていった。