『もとより素直店のお素とお直の二人を危ない目に遭わせる気はありません』

 玉吉は言葉を続けた。

『ですが、猜疑心の強いあの飛騨の山犬三兄弟を油断させるには、あの二人の協力が、特にお素のそれが必要なのです。松藻斗で一番の気の弱さで知られたお素なら、鍋や桶を持ってあそこに近ずくと同時に、怖ろしさに身は震え、やがて腰が抜けたようになって、いや、本当に腰が抜けて地べたにしゃがみ込んでしまうでしょう。そこまで見せて初めて奴らの油断を引き出せるのです。そして、地べたに置き去りにした桶や鍋、箱に入った握り飯などを、あの中にいるお米とお麦の姉妹に取りに来させるのです』

『お米とお麦? 誰だ、それは……』

 搦め手廻り同心・氷室陽之進の疑問に、玉吉が答えていた。

『あそこに、信慶寺に引き取られた双子の姉妹です。歳は十一。この両名、一見鈍に見えますが、意外とすばしこく、泥走りも得意なのです』

『泥走り? 何だ、それは?』

『信慶寺の庭は、雨が降るたびにどろんこになります。庵主さまは、”小さな子は、時には後先のことを考えずに走り回り、遊ぶのも必要”と、泥走りを認めています。そして、お米とお麦は、この泥走りの達人なのです。暮れ六つ過ぎに雨が降り、どろんこになった信慶寺の庭を走って逃げるには最適です。そして、この玉吉も……』

『と、いうことは……』

『ええ、この玉吉が、お米とお麦と三人で質人として残ります。まず食べ物と飲み物を与えて奴らの気を鎮めた後、種子島三挺と鉛玉、火薬を渡し、その代わりに庵主様とお米とお麦以外の妹たちを解き放つように需めるのです』

『いや、言うは易いが、おそろしく危険なことだぞ、これは……』

『もとより承知。それくらいしなければ、奴らは油断しません。それを招くには、まず、素直店のお素の身の震えと腰の抜け、そして、無理を承知で奴らが要求していた左利き用のそれを含む三挺の種子島が必要なのです。まずは、飲み物と食い物です。それを運ぶ役目のお素とお直の説得が必要です』

『よし、分かった。ならば、お素に教えてやろう、これは芝居だと……』

『いえ、そのこと、無用に願います。芝居ではなく本当のことでなければ、お素の身の震えはニセモノと見抜かれてしまいます。特に、三兄弟の中で特に聡い虎三郎とやらは騙せません。ですから、お素には気の毒ですが、あくまで真の依頼と思わせてください』

『よし、分かった。そうするしかないようだな』

 ……やがて、町奉行所の依頼と陽之進の需めに応じて、同心小路の素直店の二人が、お素とお直が姿を現した。

 その中でも、お素の怯え方は度を越していた。

 まだ信慶寺の姿を見ても居ないのにその身は震え、その足取りは、まるで腰が抜ける寸前のそれだった。

 それを見た見習い同心の湯郷涼太郎は、思わず吹き出しそうになるところだった。

 後に……。

 お素は、信慶寺の前まで、汁やら茶やらの桶を運ぶ途中、怖ろしさの余り、腰が抜け、地べたにしゃがみ込み、その場に座りションベンをしたと、松藻斗内外で評判になり、子ども瓦版にまで書きたてられ、何日間も寝込む羽目になったのだった。

 

 

※ あるぷす同心捕物控 第二章 湯の街三助・玉吉の恋⑮ に続く。