『だちかんッ! 止まれ! 止まらんと、びんた童を一人、絞め殺すぞッ!』

 尼寺『信慶寺』から聞こえてきた声に、陽之進と涼太郎は、思わず立ち止まっていた。

 憔悴しきっているらしく、鋭く、疳高い声だった。

 涼太郎の後ろで、陽之進が囁いていた。

 ”まず凌雲先生を返すように言い、その後に、奴らの次の求めを聞いてください”

『り、凌雲先生の治療はもうすぐ終わるはずです。そろそろ帰してください』

『へぼい若造が、べんこくせー口、利きやがって……。わりゃ、誰だ?』

『わ、私は、松藻斗の町奉行所の見習い同心、湯郷涼太郎です』

『後ろに立っているデクノボーは誰だ?』

『搦め手廻り同心の氷室陽之進さんです』

『搦め手廻り同心? 何だ、それは?』

 ”町奉行所、郡奉行所、預かり奉行所のいずれからも配下になることを断られた、半端者の同心です』

『何でそんなハンパ者の同心しか来ねえンだ? 他の同心は、捕り方はどうした?』

『ま、松藻斗はずっと平穏な処だったんで、捕り物になれていません。皆、途方に暮れています。なるべく穏便に済ませたいと思っています。庵主さまと子供たちを解き放って、早々にこの土地を立ち去って欲しいンです』

『だちかんッ! どうしてもと言うなら、カネと馬と種子島を用意しろッ!』

『それと、飯と汁と茶だッ! たしないのはだちかんッ! 飯と汁をたっぷりだッ! それと、旨いお菜だッ! あじないのはだちかんッ! そいつを直ぐにだッ!』

『飯と汁と菜なら直ぐに用意しますが、カネと馬と鉄砲は無理です』

『ナニィ! 無理とは何だッ!』

 ”涼さん、無理なんて金輪際、口にしないでください”

『む、無理ではありませんが、支度が調うまで時がかかります。暫しの猶予が欲しいのです』

『そしゃなら、飯と汁だけでも直ぐに持って来い! カネと馬と種子島はその後だッ! やくと時をかけたりすんなよッ!』

 

 小半刻後。

 鎮守の杜に戻った陽之進と涼太郎の許に、飛騨の山犬三兄弟の治療を終えた穂高凌雲が戻ってきた。

『凌雲先生? どうなんですか? 中の様子は?』

 陽之進が、早速そう訊ねていた。

『ああ、どうしようもなくヒドイ……。庵主さまは元々足が悪い上に腰が抜けてしまったらしくて……』

『そ、それで、妹たちは、女の児たちの様子はどうなんですか?』

 娘姿の玉吉が、そう訊ねていた。

『十数人居る女の児たちは、そんな庵主さまに取り付いてただ震えるばかりで……』

『そんな奴らの手にかかって、殺されたり、傷付けられたりしている児は……』

『それは未だ居ないが、安心は出来んぞ。何しろ凶悪無比な奴らだからな。どんな風の吹き回しでそうならんとも限らんからな……』

 凌雲の言葉に、玉吉は唇を噛みしめつつ頷いていた。

『俗に、飛騨の山犬三兄弟と言われていますが、それに相応しいのは、三兄弟の真ん中、次男の犬二郎です。その兄は猪之助というらしいですが、猪というよりは熊、それも月の輪熊ではなく、噂に聞く蝦夷地の羆のような男です。ですが、本当に怖ろしいのは虎三郎です。名前に反して小柄なんですが、悪知恵が働く夜叉のような男で、他の兄二人はまるで虎三郎の手下のようでした。ああ、それで思い出しました。奴らが要求している種子島三挺のうち、一挺は、火皿が左に付いている物を用意しろとのことでした』

『火皿が左の種子島? 何ですか? それは……』

『つまり、それは、左利き用の種子島です。猪之助は怪力、犬二郎は刃物使い、虎三郎は種子島と得意技があって、特に虎三郎の鉄砲は百発百中……。ただし、それは左利き用の種子島が無ければ百発五十中ぐらいになるらしい。それを、逃げる途中に飛騨の山中に落してしまったらしい……』

『明神さん。火皿が左の種子島なんて、有りましたっけ?』

『ある……。お城の鉄砲蔵に一挺だけ有るのを見たことがある……。だが、それを奴らに渡せるはずが無いだろう。あまりにも危険過ぎる……』

『いえ、構いません。奴らにそれを渡してください』

 その時、玉吉がそう口を挿んでいた。

『玉吉、気持ちは分かるが……』

『庵主さまと妹たちを助けたい気持ちは分かるが……』

『明神さま、氷室さま。身分も弁えぬ差し出口と知ってのことです。今日の暮れ六つから大雨が降ります。それもニ、三日は続く雨です。奴らに種子島三挺と弾、火薬を渡しても、逃げられる心配はありません。ですから、奴らを油断させるために、それを渡して欲しいんです』

『玉吉、それは本当なのか? 暮れ六つから大雨が降るというのは?』

『はい。絶対に間違いありません!』

 何だ、この玉吉は天気読みまでするのか……。

 涼太郎は、暮れ六つから必ず雨が降ると断言する玉吉の端正な顔をまじまじと見つめていた。

 

※あるぷす同心捕物控 第二章 湯の街三助・玉吉の恋⑬に続く。