信慶寺の前に集まった町奉行所の面々。
そして、その近くには、露骨に迷惑顔をしている村役人=庄屋、組頭、百姓代の村方三役。
そして、郡奉行の同心たち。
信慶寺は町奉行所の管轄下だが、猫の額ほどの畑がその村、西田村にある為に動員されたらしい。
やがて氷室陽之進が、湯郷涼太郎にこう声を掛けていた。
『涼さん。籠り者の飛騨の山犬三兄弟との交渉役は、すべて涼さんにして貰いますよ』
『えッ、無理ですよ、そんな……。私はただの見習い同心なんですから……』
『だからいいんですよ。年若の見習い同心だからこそ、奴らは油断する。そこが付け目です。心配ありません。話すべきことは、すぐ後ろに控えているこの私が囁くから、その通りに話せばいいんですから……』
『それならまあなんとか……。それより、信慶寺の中の様子はどうなんですか?』
『凌雲先生が中で奴らの治療をしています。信慶寺に、この尼寺に籠ったやつらが最初に求めたのが傷の治療でした。ですが、松本中の医者が臆してしまって……。結局、凌雲先生に頼ることになりました』
ふん。平生は高い薬代を取って威張りくさっていながら、意気地のない連中だ……。
足元から細かく震え続けている自身のことは棚に上げて、涼太郎は心の中で松藻斗の医者たちを罵っていた。
『おそらく凌雲先生が次の需めを聞いてくるでしょう。さあ、そろそろ私と涼さんで、奴らの前に姿を晒しますかな』
『大丈夫なんですか? 同心姿の私たちふたりを見て、奴らの血がたぎったりしませんか?』
『その怖れはありますが、これだけの騒ぎを起こして町奉行所の人間がまったく姿を見せないとしたら、その方が不自然でしょう。だから、見習い同心が一人、腰抜け同心が一人、皆に押し付けられて、おっかなびっくりやってきたという風情で行きます』
陽之進に背を押されて、涼太郎が重い足取りで歩き出していた。
鎮守の森を出て少し歩くと、目近に信慶寺が見えてきた。
三十数年前に廃寺になったそこに手を入れて住み始めたのが庵主さま。
数年前からそこに身を寄せて、足が悪くなった庵主さまの代わりに炊事、掃除等の雑務、畑仕事を引き受けていたのが玉吉だった。
そして、その玉吉が集めてきたのが、十七人もの女児たち。
親が居ず、あるいは親に捨てられた女の子たちと玉吉、庵主さまが、一年に一度の楽しみにしていた雛祭りを台無しにのが、飛騨の山犬三兄弟だった。
飛騨で幾度となく押し込み強盗をし、やがて悪事が露見し、追いつめられて山狩りまでされ気が立っている悪名高き三兄弟に人質にされた庵主さまと十七人の女児たち……。
松藻斗の町奉行所始まって以来の大捕り物になるのは必至だった。
だちかんッ! 止まれッ!
涼太郎と陽之進が、信慶寺の前に姿を晒すと同時に、そんな野太い声が轟いていた。
『構わずに歩いてください。涼さんが先に立って……』
その言葉に従って涼太郎が数歩歩くと、先ほどの野太い声が聞こえた。
だちかんッ! 動くなッ! 立ち止まれッ!
『ふーん、やはりな……』
『ひ、氷室さん、何がやはりな、なんですか?』
『やはり、あの噂は本当なんだな、と納得しているところです』
『ど、どんな噂なんですか?』
『飛騨で山狩りされて、這う這うの体で信濃に逃げてきた山越えの際に、奴らが種子島を落としたらしいという噂です』
『ど、どうしてそれが本当だって分かるんですか?』
『もしそうでなかったら、私たち二人が姿を現した途端に、ずどんと来ていたでしょうからね』
『ひ、ひどい! それじゃ、氷室さんはこの私を囮にしたってことですかッ!!』
頭は冴え冴えと冷たく、心はお日様のように温かく、足は常に進むことを忘れずに……。
だから、この私の名、氷室陽之進は同心としての理想の名です……。
それがこの人のいつもの自画自賛だったが、氷室の様に冷たいのはこの人の魂なんじゃないのか!
そのくせ、この私の名前、湯郷(とうごう)涼太郎の名については、頭は湯の様におめでたく、心は冷え冷えと冷たく、足取りは、たろたろとろとろ遅く、最悪の名前ですなと、ケチばかりついていて……。
ほんとに勝手なヒトだなあ……。
『心配ご無用。その時は、涼さんの羽織の襟を引いて倒して、弾を除けますから』
そんなに巧くいく訳、ないじゃないか!
そう思う涼太郎の震えは、ますます酷くなっていた。
『そう、その震えがいいんです。その身の震えが、臆病風に吹かれたその風情が、奴らの油断を誘うんです。そのままゆっくり歩いて……』
言われなくても、ゆっくり歩きますよ……。
というか、身が震えて、ゆっくりとしか歩けないと、遼太郎は、独り言ちていた。
※ あるぷす同心捕物控 第二章 湯の街三助玉吉の恋⑫に続く。