涼太郎の長い回想が終わった。
きんぎょ~~え、きんぎょ。紙の金魚、買わんかェ~~。
外からは相変わらず、玉吉の声が聞こえていた。
これは予想以上に長引きそうだな……。
そう考えた涼太郎は、追加の酒を頼もうとして、ふと違う注文をした。
『おやじ、焼酎を頼む。つまみはそれに合うものを適当に……』
『へい。それじゃあ、最近流行のつまみを出します』
『ああ、頼む』
やがて届けられた二合徳利入りの焼酎に、蕎麦湯の湯桶。
『茶碗に焼酎を六、七分入れてそこに蕎麦湯を加えて飲むといい塩梅になります』
『成るほど……。確かにこうすると焼酎のいがらっぽさが気にならなくなるな。そういえば、氷室さんもこうやって焼酎を飲むのが好きだったなあ……』
『それから、これに合うつまみはコレ……』
そして、差し出されたのは、辛子蓮根。
『な、なんだ、これは!! こんなモノが流行してるのかッ!!』
以前は、松藻斗でコレを出すのは、同心小路のお素とお直の店だけだったのに……。
『ええ。例の玉吉弁当に必ず入っているのがこの辛子蓮根ってことで、それを食べてみたいという客が増えましてね、今じゃ松藻斗内外で大流行してます』
畜生、玉吉の奴、とことん祟りやがる……。
『それに、最新の子供かわら版にも、玉吉ならぬ、お玉の名前が載ってますぜ。松藻斗内外・子町娘番付に……』
『そんなバカな! その番付は見たことあるが、東の大関に朋信堂の紗綾子先生、西の大関は空位で、前頭筆頭に素直店のお素とお直が選ばれていたが、玉吉の名などは何処にも……』
『それが、昨日、その改訂版が出たんです。そこには、西の大関にお玉の名が確かに……。なんなら持ってきましょうか?』
『要らん! そんなモノ、見たくないッ!!』
こどもかわら版。
それは、朋信堂が出した子供版のかわら版である。
そもそも瓦版などというものは、江戸や大坂などの大都会で出されるものであり、地方の城下町などで出版、販売されるなどはあり得ない。
なぜなら、その行為はしばしばご政道批判と捉えられ、弾圧を受けやすいからであるが、朋信堂の場合は、町奉行を通じて、大殿様の黙認を受けて行為なのだという。
この朋信堂の最初のこどもかわら版は二文という安価のせいもあってよく売れ、その後、他の手習い所がそれを真似て出し、”子町むすめ番付け”なるものも、他の手習い所によるものである。
この時、お素とお直の二人は、”紗綾子先生の大関は分かるけど、なんで私たちが前頭なんだッ!!と怒ったふりをしながら、内心は大喜びで、何枚も買い集めていたことを涼太郎は記憶していた。
ちなみに、朋信堂の最初のそれの看板記事は、『けさじろうえどにっき』、つまり『袈裟次郎江戸日記』であり、以前、籠り者騒動を引き起こした袈裟次郎とその娘二人のその後であり、江戸に出た親娘三人は、料亭の下働き等を経て、夜泣き蕎麦の屋台を出すようになり、繁盛しているという。
この二文という安さでは利益が出てもほんの少しであるが、朋信堂ではほとんどの作業を手習い子がしており、絵や字の書き手、彫り手、刷り手、売り手などを通じて、能を取り出すのだという。
手習い所のすべきことは、手習い子の蒙を取り捨て、能を取り出すこと……。
それが、朋信堂を開いた保科十四郎の教えなのだという。
そんなことを思いつつ、辛子蓮根をつまみに蕎麦湯入り焼酎を飲む見習い同心・湯郷涼太郎。
つくつくつくくつくつーくだに。ご飯のお供につーくだに。
かりかりかりかりかーりんとう。甘くて美味しいかーりんとう。
とんとんからりととんがらし。そばにもうどんにもパラリと一振りとんがらし。
玉吉の金魚売りばかりではない、さまざまな売り声が、それも子供の声が聞こえてきた。
そうか。今日は朋信堂が休みの日だったな……。
朋信堂に新しい手習い子が増えたのも、この子供かわら版と無関係ではないのだが、それについてはいずれ明らかになるであろう。
『玉吉ッ、大変だッ。庵主さまの処が大変なんだッ。庵主さまとお前の妹たちの命が危ないッ!!』
その時、女鳥羽蕎麦の外から、搦め手廻り同心・氷室陽之進の声が聞こえてきた。
『えッ、それはどういう……』
『飛騨の山犬三兄弟が、遂に峠を越えて、この信濃の国に、この松藻斗藩の領内に逃げ込んで来たッ!! それも手負いだッ。女子供でも容赦なく殺す奴らだッ。庵主さまの処が女ばかりと知って押し入り、立て籠っているッ。紙の金魚なんか売っている場合じゃないぞッ!!』
何ッ、あの凶暴で知られた飛騨の山犬三兄弟がッ!!
次の瞬間、涼太郎は刀と十手を腰に差し、女鳥羽蕎麦の戸を開けて道に飛び出ていた。
※あるぷす同心捕物控 第二章湯の街三助・玉吉の恋⑩に続く