女ながら男伊達を気取り、剣術の稽古着、稽古袴、雪駄姿に若集髷で、松藻斗、浅間の湯界隈をかっ歩していた娘三助、玉吉。
その玉吉が、ある日の揉め事を機に恋に落ち、娘姿になって、その恋の相手の見習い同心に手作りの弁当を届ける、それだけで一寸とした見物だった。
しかも、その小袖は日替わりである。
もとより、玉吉がそんなに衣装持ちであるはずがない。
それは、玉吉連の娘たちからの借り着である。
昼前の町奉行所の前の見物人の数は、日に日に増えて行った。
そして、それに連れて、娘たちの間から、涼太郎に対する怨嗟の声が上がり始めたのである。
どうしてなんです? どうしてこの私ばかりが……。
その日、お素の店、やと亭でそう愚痴りつつ酒を飲んでいた涼太郎が、その目尻に涙を浮かべていたのは、必ずしも肴にしていた辛子蓮根の辛さの所為だけではなかった。
『おや、涼太郎さんが泣き上戸とは知りませんでしたな……』
そう口にしたのは、同心・氷室陽之進だった。
ちなみに、この当時の辛子蓮根は、その切り口が熊本藩の細川家の家紋に似ている事から、熊本藩藩主とその一族、藩士のみが食べるものとされていたが、何故か、陽之進の好物のひとつだった。
陽之進がそれを始めて口にしたのも、熊本藩の下屋敷でだったという。
それは、熊本藩の剣術仲間の藩士の方でも訪ねた折にですかと、涼太郎が訊ねたことがあったが、なに、中間部屋の博奕場でですと、軽くいなされてしまった。
『涼さん、浅間の湯に安曇湯という湯宿があるのを御存知ですか?』
『ええ、名前だけは……』
『まあ、浅間の湯でも、一、二を争う湯宿ですからな。先代が安曇村から出て湯宿を始め、今の主がそれを広げ、娘が婿を取って三代目を継ぐ予定でした』
『息子は居なかったのですか?』
『そう。娘が二人。姉娘のお春が婿を取るつもりでしたが、やがて、それは嫌だと言い出した』
『どうしてですか?』
『それは、幼馴染の杉太郎。同じ浅間の湯の木崎湯の跡取り息子でひとりっ子。お春は、”あたしは杉ちゃんの嫁になるから跡は継げない、お夏に婿を取ればいいと言い出して、妹のお夏に鉢を回そうとした』
『すったもんだがあったんですか?』
『多少はあったらしいが、さしたることはない。お夏にも末は一緒になろうと言い交わした男がいた。同じ手習い所に通っていた蕎麦屋の息子。だが、弟がいた。その弟に蕎麦屋を継がせて、安曇湯の婿養子に入ることで話はまとまった』
『それじゃ、それでいいじゃないですか』
『だが、その妹、お夏がたったひとつだけ願いを出しました』
『どういう?』
『お姉ちゃんがそうしたように、婚礼の前の日と当日の朝、玉吉さまの手で嫁入り前の身を清められてから、花嫁衣装を着たい、という願いです』
『な、何でそこに玉吉の名前が出て来るんですかッ!?』
『玉吉がむすめ三助を始めた当初は、その客筋は、芸者衆や女房連だけでした。ですが、若衆姿で歩く玉吉に憧れる娘たちが増え、そんな娘たちの憧れが、嫁入り前の身を玉吉の手によって清められることでした。浅間の湯か、松藻斗の湯を借り切って、玉吉が花嫁一人の為にする清めの湯浴み……。それに立ち会えるのは、仲人、母親、祖母、姉妹、従妹等の親戚、手習い所や裁縫塾、三味線塾の仲間のみ。その一同に見つめられつつ玉吉に身を流されるその晴れがましさはもう、流された本人しか分からないそうです』
『氷室さん、まるで見てきたような口ぶりですね』
『まあ、お素とお直の二人にさんざん聞かされていますからね。湯の中はもとより、外の通りにも、山のように花が飾られ、振る舞い酒、振る舞い茶、振る舞い餅、振る舞い菓子が並び、その華やかさを目にした妹娘のお夏が、同じことを要求するのは当然。だがそれを阻むのが憎き見習い同心・湯郷涼太郎……』
『氷室さんッ、何か、面白がってませんかッ!?』
『いや、怒っているのは、浅間の湯・松藻斗界隈の娘たち。面白がっているのは、浅間の湯・松藻斗界隈の男たち全員です。ですが……』
『ですが……?』
『ですが、この後、一波乱ありそうな予感がします』
一波乱、どころではない。この後、松藻斗藩を揺るがす一大変事、一大凶事がすぐそこに迫っていた。
※ あるぷす同心捕物控 第二章 湯の街三助・玉吉の恋 ⑨