その翌日。
奉行所にて書類整理に忙殺されていた涼太郎だったが、ようやく昼食の刻を迎え、同心溜まりの間に向かおうとした時だった。
『おい、色男。客人だ。それも若い女人で、凄いべっぴんだぞ』
涼太郎は、例繰方同心の降旗錦吾にそう声を掛けられて、戸惑っていた。
誰だろう? まさか、玉吉の件で何処かの娘が文句を言いに来たんじゃないだろうな……。
『安心しろ。おそらくそんな事じゃないだろう』
涼太郎の不安を見透かしたように錦吾がそう言い、更に続けた。
『何しろ相手は、見習い同心・湯郷涼太郎の許嫁だと言ってるからな』
許嫁だとォ? そんな女が居る訳がない。
いや、もしかしたら、気の早い、いや、心配がちな塩田平の親が、どこぞから娘を探し出してこの松藻斗まで送り込んできたのかもしれないぞ……。
涼太郎が半信半疑の思いを抱きつつ町奉行所の脇玄関まで行くと、そこには確かに若く美しい娘が立っていた。
歳は、涼太郎と同じかひとつ上ぐらい。
奴島田の髷に、梅草紙散らしの小袖。そして手には大きな袱紗の包み。
富士額に、聡明そうな黒目がちの瞳。
誰かに似ているな……。
そうか、朋信堂の保科紗綾子先生に似ているんだと、涼太郎は気付いていた。
聡明さでは紗綾子さんにやや及ばないかもしれないが、気品という点では甲乙付けがたい……。
そうだ……。武家の出の紗綾子さんを町娘姿にしたら、こうなるのかもしれないな……。
それにしてもこの松藻斗にこれだけの美形の娘が居たとは知らなかったな。
『私が見習い同心の湯郷涼太郎ですが、何か用ですかな』
『突然、押し掛けたりして申し訳ありません。先日、浅間の湯にてお見知りおきいただいた者でございます』
『いや、間違いなく初対面でと思うのですが……』
『先日は浅間の湯にて同心の湯郷涼太郎さまに対して失礼の段、お赦しくださいませ。実は、あの後、姉にも散々叱られました』
『いや、私はあなたも、あなたの姉上とかも知らないのですが……』
『姉は浅間芸者の勝吉。私はその妹で、つい先日、穂高大湯の前で恥ずかしい姿をさらしてしまいました、むすめ三助の玉吉改め、お玉でございます』
『えっ!』
涼太郎は、思わずその場でその顔を見直していた。
すると、その気品に満ちた美貌の下から、あの伝法な口調の三助玉吉のそれが浮かび上がってきた。
あの日以来、一度も忘れたことが無い、否、忘れることが出来なかったその顔。
人を散々、半チク野郎だの、強淫野郎だのと罵った挙句、小具足術とかで自分の手首を捩じ上げた玉吉。
そんな玉吉が、島田の髷を結い、娘姿になって自分を訪ねてくる……。
涼太郎にとって、それはまさに白日夢、いや、悪夢だった。
『あの節は、女の身を弁えずに失礼の数々、どうかご容赦くださいませ。お詫びのしるしに、お弁当を作ってまいりました。どうかお召し上がりくださいませ』
そう言うと、お玉は、手にした袱紗の包みを涼太郎に押しつけていた。
『こ、こんなに沢山、とても一人では……』
その包みの大きさと重さに涼太郎は戸惑い、そう口にしていた。
『お奉行所の他の方々の分もございます。どうか皆様でお召し上がりください。ちなみに、恥ずかしながらこれまで煮炊きを覚えずにきてしまったため、煮物、揚げ物、飯炊きなどは庵主様の手を借りていますが、辛子蓮根だけは自ら作りました。辛子蓮根が、涼太郎さまの好物と聞きましたので……』
いや、それは……。
それは、自分の好物ではない、氷室さんの好物なんだという言葉を涼太郎は呑み込んでいた。
『それでは本日はこれで失礼します。湯郷さま。明日もこの刻限に参ります』
その必要は無い!
思わずそう叫びそうになった涼太郎に背を向けて、玉吉改めお玉は去っていた。
その背中を呆然と見送る、見習い同心・湯郷涼太郎、搦め手廻り同心・氷室陽之進。筆頭同心・明神大三郎らの同心たちと、十手小者たち。
そして、その後ろには、なんと町奉行所のお奉行の姿まであった。
この直後、松藻斗内外に、娘三助・玉吉が、裸にひん剥かれたせいで女に、恋に目覚め、男伊達家業に見切りを付けてしまったという噂が流布し、半チクな見習い同心・湯郷涼太郎は、増々娘たちの憎悪を集めることになってしまったのである。
※あるぷす同心捕物控 湯の街三助玉吉の恋 ⑦に続く。