松藻斗のお城下へと急ぐ湯郷涼太郎と保科紗綾子の姿があった。

 炊き出しと湯浴みの差配は、手助けのおばさん連中に任せて歩く涼太郎と紗綾子の二人。

 ちなみにお素とお直は、素直店の夜の店開きの準備のためにもうすでに去っていた。

 

 いろはにほへと

   いろりに手かざし 湯たんぽ抱えて 股火鉢

               ねこが真似する 陽之進

         朝湯 朝酒 夏でも燗で

               きぶくれダルマの陽之進 

 

 いろはにほへと

   ろくでなしでも禄は食む

     ろくに働かずの 陽之進

         蕎麦は好むが ほうとう嫌い

           放蕩同心陽之進 腰抜け腑抜け

 

『しかし、あのわらべ唄には腹が立ちますね。 あれでは同心の面目というものが……。氷室さんは良くても、他の同心の方々に迷惑がかかります』

『申し訳ございません。あのわらべ唄を広めたのは私なんです』

『えッ?』

 義理の兄である氷室さんを、心の底から尊敬している筈のこの人が、なんでまた……。

『義兄上さまから頼まれたのです。その方が仕事がやりやすいと……。義兄上さまが作った元の歌に、私が節を付けて手習い子たちに教えましたら、松藻斗のお城下だけでなく、お城下にまで広まってしまって……。実の娘の瑠璃子までもが喜んで歌っているぐらいなんですから……』

『そういえば、今日は瑠璃子ちゃんは?』

『ええ。まだ風邪が治りきってないですし、それに、まだ三歳の子に美菜瀬村は遠過ぎます』

『それで、瑠璃子ちゃんの為にも早めに帰るという訳なんですか』

『はい。人手も足りていることですし』

『私も町奉行所に戻ってお留守番なんです。他の同心の方々はほとんどが浅間の湯での、湯宿での宴会に出ていますからね。私の方は、今夜は不寝番です』

 ちぇ、いったい何時になったら見習いの身分から抜け出せるんだ……。

『それにしても、あの炊き出しやら宴会やらの費用(かかり)が、大殿様から出ていたとは……。大殿様って、そんなに裕福だったんですか?』

『これもあくまで噂ですが、大殿様は茶人、粋人として知られていて……』   

『ああ、それは私も聞いています』

『江戸藩邸時代に購入したり、贈られたりした書画骨董、茶器の類いを売られて、その費用(かかり)を捻出されているらしいです』

『そうだったんですか』

『そもそも義兄上さまの搦め手廻り同心というのは、大殿様のご発案、勧めによって作られたものなんです』

『え、そうだったんですか?』

『はい。亡き父が、姉と私の手を引いて松藻斗のお城下にたどり着いた時、北嶺一刀流の六代目市宗家の方は、わずかな差で身罷られていて、その遺言によって亡父が七代目を継ぎました。とはいえ、道場生はわずか二名、朋信堂の教え子はお素さんとお直含めて、わずか五名……。とても暮らせる訳はなく、困窮を極めました。それを伝え聞いた大殿様が、”ならば、町奉行所と郡奉行所の差配地、公儀からのお預かり地を回る搦め手廻り同心というのを新たに作ってはどうか”と提案されたのです。その結果、道場の一番弟子である、義兄上さまがその搦め手廻り同心に就き、その扶持米と、順次増えていった朋信堂の手習い子の謝儀束脩のおかげで人がましい暮らしが送れることになりました』

 そうか。そんな経緯があって、氷室さんは道場主の娘である保科文子さんと夫婦になったのか……。

 よし。こうなったら、あの人の謎を方っ端から解明してやる……。

『でも、氷室さんって、いい加減な人ですね。お素やお直の行為に付け込んで、毎日、いや、十日に四日ずつ、計八日も無料(タダ)飯、無料(タダ)酒で済ませるなんて……』

『いえッ、それは違いますッ!!』

 その時、紗綾子が、意外な口調の激しさで否定していた。

 奇(数)の日は、お直の店。

 偶(数)の日は、お素の店。

 そして、五と十の日は、同心横丁の屋敷に戻り、娘の瑠璃子と義妹の紗綾子と夕餉の膳に向う……。

 それが、搦め手廻り同心・氷室陽之進の日々の予定だった。

 その五十(ごとう)日の煮炊きを受け持つ保科紗綾子の語調の激しさに、湯郷涼太郎は驚いていた。

 

※ 『あるぷす同心捕物控 わらべ唄と馬鹿羽織⑯』に続く。