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男は海に住んでいました。
長い長い砂浜に連なって松の林が続き、その端の方に小さなログハウスがあります。
そこが男の住まいです。
男は海の左端から朝陽が出るとベッドから起きだし、裸足のまま砂浜を端から端まで歩きます。
潮騒に耳を傾けながら、潮の香りを胸いっぱいに吸い込みます。
砂に沈みこむ足にバランスを取りながら歩き始めます。
風は頬をスッと撫でて朝の挨拶をしてきます。
足の裏の皮膚が砂の一粒一粒と触れ合って、朝の地面の冷たさを受け取ります。
手のひらと指先は空気の湿気を感じ夜中に小雨が降ったことを知ります。
空を見上げると海からの向かい風に乗った鳶がグライダーのように軽々と舞っています。
男は今日もまた一日を命ある者として過ごすことができる。
地球の生きものとしての許可をもらったことを自覚します。
一歩一歩をしっかりと踏みしめながらの散歩を終え家に戻ると黒猫のシスが寄ってきて身体を摺り寄せます。
冷蔵庫からキャットフードを取り出して器の三分の一ほど入れてあげます。
待ちきれないと言わんばかりに男を見上げながら一鳴きし、カリカリと音を立てながら背中を立てて丸まりました。
男は時間をかけて落としていた珈琲をなみなみとカップに注ぐとゆっくりとテラスに持っていきました。
テーブルにカップを置き海を見ます。
座りながら珈琲を口に運ぶとカフェインが脳をノックし男の一日が始まりました。
静かに時の流れのままに暮らす男のもとを時々、人が訪ねてきました。
どこからか聞きつけて相談に来る者、ただ男と話をするために訪れる者、波の音を聴いて癒されに来る者、様々ですがその日によって訪問者は変わります。
男の目は海を見て、空を見て、砂浜を見て、猫を見て。
男の耳は波の音を聴き、風の音を聴き、猫の声を聴いて。
男の鼻は潮の香りを嗅ぎ、花の香りを嗅ぎ、猫の糞の臭いを嗅ぎ。
男の口は珈琲を飲むときと、何か食べるとき、猫に語りかけるときに開きました。
時折やってくる相談者の話を男は静かに聞きました。
言いたいことが出尽くしたころ、男はゆっくりと必要なことだけを語りました。
ただ男と話すために訪れる友人とは楽しく語り合い、たわいもない昔話などに花が咲きました。
男は自家焙煎の珈琲を出し、各人は自分でミルとドリップをしました。
希望する人には目の前の松林で拝借してきた松の葉のジュースでもてなしました。
少し体調が悪いと訪れる者や元気がでない者は砂浜に連れていき、砂浜をゆっくりと歩かせました。
時には足首から下を砂に埋め、ただ波の音に耳をすますことを教えました。
男のもとを訪れる人たちは、そんな何でもないことをして数時間を男と過ごすと心身ともに癒されて帰っていくのでした。
そんな緩やかな毎日を送る男のもとに時折、深刻な相談をしてくる人たちもいます。
特に難しい病気に関しては男はじっと状況を聴きながら相談者を観察します。
そしてまだこの世での生を続ける道が開けていそうなときは、そっとその後押しをします。
黙ってそっと行うのです。
それが本人に語られることはありませんでした。
一方で、もう寿命が尽きるのが近くどうにもならないと感じた時は、魂と肉体の関係、自然や宇宙のお話をしました。
相談者が移行する次の世界への準備のためです。
人の訪問がなく天気が良い日などは男は海に潜ります。
浜辺の浅瀬で沈んでは砂が海中ではじけている音を聴き、岩場で潜っては動き回る貝の姿や海底を歩くタコを観察します。
魚の群れがダンスする様子を鑑賞し、海水と一体となって透明な身体となって溶けこんでいきます。
海底から見上げる海面は差し込む太陽の光を踊る波が乱反射し、最高の万華鏡でも見れない世界を見せてくれます。
身体の中の水は海の水と一体となり、地球を覆いつくす大海は自分と一体であることを確信します。
男は海に潜らないときは時折、海の仲間を呼ぶ時もあります。
その呼びかけに応えて近くまで来てくれる時もあれば、そうでないときもあります。
呼びかけに応じて姿を見せるのはイルカのグループなどです。
過去にはクジラが来たこともあります。
彼らとの周波数があって、ご機嫌が良ければ遊びに来てくれます。
その時はお互いの祝福のメッセージの交換が行われます。
夕方になると男は近くの温泉に出かけます。
温泉は潮湯でかけ流しの源泉の温度も熱いものです。
地元の人たちが毎日入りに来るもので安価で質も効能も良いものです。
マグマだまりの近くから吹きあがってきた蒸気を含む源泉は、多くの地球の恵みを含みこの星に住む者の生命そのものを蘇らせてくれます。
男はこの大地からの恩恵と浄化の力を毎日、存分に堪能したくてこの地に落ち着いていると言っても過言ではありません。
時間をかけて心と身体の癒しを求める人たちには、この温泉での長期の湯治を勧めました。
温泉から帰ると夕食の準備に入ります。
食材は頼まなくても訪れる人が持ってきてくれるのでその差し入れが中心です。
好き嫌いもないので、ある食材で何ができるかを考えその日にできるものを料理し海を眺めながらゆっくりと食事しました。
男は何が身体に良くて何が悪いなどはあまり深くは考えません。
太陽と大地の恵みを貯め込んだこのありがたい食材が自分の血肉となってくれることにただ感謝するのみでした。
夕暮れになると男はデッキチェアーでくつろぎながら本を読むか波の音を聴いています。
黒猫のシスがかまって欲しい時は本を読むことを諦めます。
空に輝く星々を見つめ、その一つ一つの光との会話が始まることもあります。
月夜には漆黒の海をうごめく波たちがわずかに放つ光を眺め、大海の奏でる鼓動のリズムと自らの心臓の鼓動を合わせてみます。
やはり、地球の放つリズムは私たちの身体のリズムとコラボしている。
男はその真実をかみしめながら至福のもとにまどろみます。
波の音のBGMは男を深い眠りへと導き、意識は深海の奥底への旅が始まります。
旅人となった男の意識を先導するのは時にはクジラであり、イルカであり、クラゲであり、ウミガメであったりします。
深海の海底は闇でありながら闇ではなく、生命力にあふれたアグレッシブな世界であることを知ります。
暗黒の海底はまるで宇宙のように活発でエネルギーに溢れ、つねに変化と発展に満ちています。
外のデッキチェアーで黒猫と眠る男の額に雨が降ってくると男は慌てて部屋に入りベッドへともぐりこみます。
黒猫のシスも遅れないようにベッドに飛び乗り男の横で丸くなります。
雨の夜などに波の音よりも雨音が大きくなっているようなときは、昔出会った人々の顔が浮かんだり、楽しかった思い出がたくさん走馬灯のように浮かんでくることもあります。
そんな時は少しだけ人恋しくなります。
ベッドの横に置かれた数々のクリスタルや石たちは男の良き伴奏者です。
時折手に取って窓から射しこむ光にあてて奥をのぞき込んだり、浜辺で太陽にかざしたり、手のひらに包み込んで眠ったり。
部屋の入り口とリビングにある植物たちや庭の花々も良きサポーターです。
彼らを撫でたり鼻を近づけて匂いを嗅ぐと一気に元気になってしまいます。
男はそんなつまらない毎日を送りながら海と松の浜辺に黒猫と住んでいます。
デッキチェアーでくつろぐ男が雨が降ってきても動かない様なときは、男の魂が新たな旅に出た時なのでしょう。
了