男は仕事を終えるといつもの家路をとぼとぼと歩き、暗い顔のまま帰ってきました。

妻と三人の子供たちは明るい笑顔でお帰りと言い夕食が始まります。

 

夕食の時も男は終始言葉は少なく、ただ食材を口に運ぶと子供たちのしぐさにうつろな目を向けていました。

早々に食事を終えると男は何も言わずベッドにもぐりこみ、まどろみ始めました。

 

 

 

何者かの気配を感じ、あたりを見ると三人の黒い服の死神がベッドを取り囲んでいました。

 

三人の死神は大きなフードの奥の顔は見えず真っ黒なローブを着ていました。

威圧感や恐怖感を与えることはなく、ただ不気味な雰囲気だけを漂わせています。

 

「お前の命はあとわずか。その前にいくつかの提案をしよう。」

 

一人の死神の声が部屋に低く響き渡ります。

 

「俺はお前のわずかのお金と財産が欲しい。お前はこれを差し出すことで一文無しになるだろう。明日の食べ物にも困り、自分も家族も生きていくのは大変になる。しかしお前の命は助けることにする。」

 

「私はお前の家族の誰かの命が欲しい。特に子供の命は最高だ。お前は子供を失った悲しみにもだえ苦しみながら生きることになる。」

 

「わしはお前の友人たちの信頼が欲しい。お前はこの契約を結ぶとすべての友達をなくし孤独の中で生きていかねばならぬ。だがお前の命は助けよう。」

 

しばらく黙って聞いていた男は怒りに震えながら言いました。

 

「お前たちは何の権利があってそんなことを言うんだ!俺が死ぬかどうかは知らないが、お前たちにそんなことを提案されたりする覚えはない。そもそも気持ち悪いから来ないでくれ!」

 

「なるほど。聞く耳は持たないという事か。では、三つの提案も受けないという事だな。」

 

「当たり前だ。お金はともかく、大切な人達と引き替えなんておかしいだろう!お前たちが言うことはどれも受け入れられない。ここから立ち去れ!出ていけ!」

 

「後悔するかもしれないが、それでよいのだな。」

 

「後悔などない!早く出ていけ!」

 

「では、そうしよう。」

 

死神たちはかすかな低い声を残しながら去っていきました。

 

翌日、朝からいつものように朝食を終えると男はいつもの路地を通り、職場の印刷工場に向かいました。

入口のドアに貼られた紙に愕然とします。

 

「当印刷所は閉鎖いたしました。長らくお世話になった皆様。ありがとうございました。」

 

男は職を失いました。

少人数の印刷所のため、経営状況が良くないのは薄々感じていましたが、従業員の自分たちにも何も言わずに急に閉鎖するなんて。怒りがこみあげていたところに他の初老の従業員と中年の女性従業員もやってきました。

どうも誰にもしらせずに経営者は夜逃げしたようです。

もちろん未払いだった給料も払われるあてはありません。

全員がショックの様子でしたが肩を落とし、途方に暮れた様子でとぼとぼと歩いていきました。

 

家につくと事情を妻に話しました。妻は無表情のままうなづき台所へと消えました。

三人の子供は父が家にいることが嬉しくてまとわりつきます。

7歳の男の子は外に遊びに行きたいと言い、5歳の女の子はままごとを一緒にしたいと言い、2歳の男の子は抱っこしてほしいと言いました。

 

男は、今日は具合が悪いんだと嘘をつき、子供たちから離れて一人ベッドに寝転びました。

死神たちの言ったことが頭の中に渦巻いていました。

 

数日間の間、男は家族との言葉も少なく仕事をさがして町中の工場や店舗を訪ね歩きました。

世の中の景気は良くないため、どの職場でも新たに人を雇う余裕はないと断られます。

友人や知人を訪ねて歩きましたが、普段は疎遠な状態にある男がいきなり職を求めて訪ねても知り合いをあたっておくとの無難な返事しか返ってきませんでした。

 

そんな夜、2歳の男の子が高熱を出しました。

風邪をこじらせたような咳を長くしていましたが、気になりながらも薬を買う余裕がないため放置していたのです。

あわてて子供を抱きかかえかかりつけの町医者を尋ねましたが留守でした。

夜中の街をさ迷いながら、町はずれの医院のドアを叩くと酔っ払った医師が顔を出しました。

随分と酔った様子でしたが、脈をとり、身体の数か所に手を当てると高熱だが問題はないだろうと言い、よく冷やして明日の朝にまた来るようにと言いました。

 

不安は残したまま家に戻りましたが、一向に熱が下がる様子はありません。

男はつきっきりで看病しました。

子供は大汗をかきながら苦しそうにあえぎます。

無力感に苛まれながらも男と妻は必死に祈りました。

握りしめていた子供の小さな手が少し熱くなくなったと感じた時、静かな息になっていた子供の息呼吸は止まっていました。

 

悲しい日々が続き、日常の生活に戻り始めたころ一通の督促状が届きました。

家賃を数カ月滞納していたため家主からの退去命令がきたのです。

収入もないため食事もままならぬ状態で家族で暮らしていましたが、男の仕事はまだ決まっていませんでした。

 

しばらくすると妻から申し出がありました。

子供二人を連れて実家に帰りたいというのです。

田舎の両親からは以前から子供を連れて実家に戻るように言われており、向こうに戻ると家もあるし子供もご飯が食べれるからと。

男は何も言えずただうなずくしかありませんでした。

母親の隣を歩きながら7歳の男の子が時々こちらを振り返ります。

路地の奥へと遠ざかる家族の姿が涙に霞んで見えなくなっていきました。

 

朝もやの中を男はとぼとぼと歩いていました。

誰かの目線を感じ、男がみるパン屋の店主がこちらを見ていました。

男が近づこうとするとスッと目をそらし、そそくさと店の中へと逃げ込んでしまいました。

この数日、男は街の人々が自分から目をそらすのを感じていました。

まるで置物か何かがそこにあるように男の前を通り過ぎていくのです。

目をそらさない人はじっとこちらを凝視し、その眼には侮蔑の感情をこめられていました。

借家を追い出され、家族にも捨てられた男はすっかりホームレスとして町の石畳の色に溶け込み始めていました。

 

ある友人とすれ違ったときのことです。

明らかに友人は男の存在に気付いているにも関わらず完全に無視をしました。

自分に声をかけてくれるのではないかと一瞬でも期待したことを後悔し、友人に正面から向き合えない今の自分がまるで海の底深く沈みゆく沈没船のように感じられました。

 

もう、自分一人で生きていくしかないのか。

 

男は夜の街をさ迷い、人知れず食べ物を探します。

春になっても闇夜の風は身体を冷やします。

昼間は目立たないように木陰で休みます。

人が近づいてくると警戒し、小さな虫が近づくと目を細めて眺めました。

 

数カ月が経ち、気力も体力も衰えたところに長雨が続きました。

雨が続くと食料にありつくのが難しくなります。

雨宿りをしながら雨どいからしたたる水のしずくを舐めながら男は命をつないでいます。

男の身体は冷え切り、意識は朦朧と過去の思い出をつづっていました。

 

職場の仲間の笑い声、妻や子供たち家族の笑顔、仲が良かった友達、愛した人々、自分が幼いころの両親や友達、田舎の風景。

様々なものが雨音と共にやってきては消えていきました。

 

降り続く長雨の夜の闇の中、三人の死神たちがやってきました。

 

「俺たちの言った通りだろう。このすべての絶望の中、お前は不幸のどん底だ。その中で死を迎えるのだ。」

 

男は反論することなく黙っていました。

確かに死神たちのことを思い出しては、あの時の提案を一つでも受け入れればよかったのかと思ってしまうこともありました。しかし、やはり何かが違うのです。

 

「俺に後悔などはない。お前たちのような者に脅されて恫喝されてつなぐ命などはこちらからお断りだ。」

 

「最後まで威勢がいいものだな。まあ、せいぜい最後まであがくことだ。」

 

高笑いしながら死神たちは消えていきました。

 

やがて雨が止み、うっすらと夜が明け始めた石畳を男はとぼとぼと歩きます。

石畳のわずかな凸凹にすり足のつま先がつまずき倒れました。

とっさに手をついた掌にうっすらと血が滲みます。

もう、男には起き上がろうとする気力も体力も残っていませんでした。

このまま朽ちていくのか。

 

ふと目線を落とすと石畳のわずかの隙間から、雑草の若い芽が顔を出していました。

薄い黄緑色の芽は朝日の柔らかな光に透き通り、小さな水滴を葉の上にはじいています。

 

「そうか、この長雨でお前は顔を出したのか。」

 

細長い雲の合間から一筋の強い朝陽が男と黄緑の若い芽を照らしました。

男の涙がほほを伝って流れ落ちます。

キラキラと光る涙は石畳の上で跳ねました。

 

「ああ、太陽だけは。まだ私を・・。」

 

黄緑色の若い芽にそっと触れました。

 

「太陽と水と土。それだけで君はこれだけ美しく、たくましく、成長するのか。

その発現の源は・・。なんだ。

意志。

芽を出そうとする意志。

成し遂げようとする意志。

それが種の中にうごめいていたのか。

全てはあるのか。そこにあるのか。

その意志のもとはどこから?いつからあった?

そうか。宇宙の始まりから、根源から。

植物を動物を鉱物を星を、存在させて宇宙全体の繁栄につなげる。

この宇宙にある。宇宙を貫く何か。宇宙を豊かに導く何か。

すべて与えられている。

それに気づいてない。

何もかもが奪われたように見えても、それでも全てある。

大切なものはそこにすべてあるじゃないか。」

 

 

 

男は隣の部屋からの大きな音で目が覚めました。

7歳の男の子が母親に何かを大きな声で訴えています。

どうも5歳の女の子が男の子のおもちゃを取ったようです。

男はおもむろに起き上がると目をこすりながら隣の部屋のドアを開けました。

2歳の子を抱っこしたままで妻はこちらに目を向けます。

 

「なんか飲みますか?」

 

椅子に座ると女の子がすぐに上に乗ってきました。

お兄ちゃんに対抗するために父親を味方につけたいようです。

そこには日常の生活がありました。

にぎやかな子供たちの声がありました。

 

窓を開けプランターを見ると、数日前に顔を出していたシンビュームの球根の芽が三日続いた雨で大きくなっていました。男は黄緑色の葉に触れると言いました。

 

「死神が来てすべて持って行っても、本当に大切なものは全部残ってるんだ。」

 

外を眺める男の横にメスの黒猫のミミがきました。

頭を撫でて、耳の後ろをかき、丁寧に鼻の上と髭をなぞると顎を突き出してきます。

 

「心地いいことは貪欲に求める姿でこちらが癒されたら、それも大きな存在の愛だな。」

 

 

                      了