ゴリゴリという音で目が覚めた。
どうやら肋骨をかみ砕き、奴は内臓を喰い始めたらしい。
朦朧とする意識の中でそれがわかる。
奴は待ち伏せしていた。
風下に陣取り、俺の動きをジッと鼻でかぎ取りながら観察していたのだ。
俺は奴との戦いに敗れ軍門に下った。
奴は敵である俺を倒し、当然のこととして獲物とした。
自然界の掟として奴は俺を喰らう。
三日前から奴を追い続けた俺は、吹雪の中で奴を見失っていた。
奴は冬眠をしない巨大なオスの穴無しだ。
獲物を求めてずっとこの冬の間、山と里を徘徊することになる。
最強最悪の山の悪魔だ。
数人の村人が奴の犠牲になり、俺は人間の代表として野生の獣王である奴を仕留めることにした。
吹雪が止み、風だけがかすかに残った時、奴はすでに俺の動きをつかんでいた。
大自然の息吹を読む術において奴は一枚上手だった。
俺はその時点で奴にすでに敗れていた。
山の中ですべての自然と一体となって暮らす山の主に人間の俺はどんなにあがいても及ばなかった。
山は奴に味方したのだ。
人間の知恵や経験では足元にも及ばないことはどうしてもある。
山の顔の移り変わりが空気に伝わるのはほんの一瞬だ。
その一瞬の読みが遅れた時点で勝負はついていた。
俺は半ば薄れゆく意識の中で、喰いちぎられる臓物の音を聞いている。
全身が麻痺したこの状態で、神は人間から痛みという苦しみを取り去ってくれるようだ。
これは神の最後の慈悲とでもいうべきまのなのか。
奴は左前足で俺の胸を押さえ、俺の腹に顔を突っ込んでいる。
巨大な黒茶の毛の山だけがぼやけて見え、臓物を貪る音と奴の息遣いだけの世界。
真っ白な雪の上で赤い血の部分が窪んでいる。
零下の山では暖かい血を残しながらの方が美味いのか心臓には手を付けず、獲物はなるべく生かしたまま、なぶり殺しで喰うらしい。
思ったよりもゆっくりとした時間をかけて俺は喰われている。
これも命を狙った相手に対しての奴からの復讐の一つなのか。
吹雪が止み少し安堵した俺の前に奴は木の陰から突然突進してきた。
巨大な黒い岩が転がるように怒涛の勢いでかけてきた奴は、銃を構える間もなく咆哮と共に左手の一撃をくらわしてきた。
かろうじて顔への攻撃は避けたものの、俺は数メートルも飛ばされ雪の上に転がっていた。
体制を整える間もなく二撃、三撃をくらいその後は記憶がない。
臓腑を喰らわれ始めてどれくらいの時間が経ったのか。
ほんの数分なのか数十分なのか。
目覚めた意識も朦朧としたころ、真っ赤な血に染まった奴はその顔を初めてこちらに向けた。
真っ赤な毛の中に爛々と光る黒目はじっとこちらを見つめている。
その光に怒りや恫喝はなく、ジッと睨みつけている。
まるで天の仁王様が裁きの目を向けるように。
今まで、俺が山の獲物を撃ち、奴の一族を撃ち、殺生を数十年に渡り続けた報いなのか。
これが山の神が下した裁断なのか。
俺の中に恐怖はもう無い。
奴への恨みもない。
生への切望や執着もない。
絶望もない。
この自然の掟に従い俺は山の土へと帰るだろう。
そう俺は死をごく自然に受け入れる。
それがお互いを獲物として狩った者同士の宿命であるからだ。
俺は奴の黒い瞳の中の光に吸い込まれるように意識が遠のいていった。
そして最後に肉体を離れ透明となった俺は奴に吠えた。
「身体はくれてやるが、俺の精神までは喰えないぞ」
奴は透き通った俺を見ると一瞬動きを止めた。
そして何事もなかったかのように真っ赤な血に染まった顔を再び俺の腹に突っ込み、無表情で臓腑を貪り始めた。
吹き飛ばされた銃は雪に埋もれている。
風は止み雪雲の合間から陽が射していた。
了