クリスマスイブですね。

 

私はクリスチャンではありませんが、長崎で生まれ育ったので周りにも多くのクリスチャンの方々がいましたし、今もいます。

小さな町にもどこかに必ず教会があって、お寺の鐘と別に教会の鐘の音も聞きながら育ちました。

私の住んでいた地域は隠れキリシタンの歴史もある地区だったので、小学校の頃はクラスの4人に1人くらいはクリスチャンで、ヨハネパウロ二世が長崎に来た時には学校を休んでたくさんの友人は会いに行きました。

 

そんな環境でしたが私の家は仏教徒で禅宗でしたので、特にキリスト教に深くかかわることなく大きくなりました。

 

「聖書」というものに私が初めて触れたのは20歳の頃でしょうか。

暇でしょうがなかった大学生の私は哲学、思想、宗教などの分野の本も乱読していました。

そこで中学時代の国語の先生が、歴史的なベストセラーはキリスト教の「聖書」であり、有名な作家の本棚には必ず聖書がるといっていたのを思い出し、本屋さんで聖書を手にとり読み始めました。

それは和英対照になっているもので、日本語が旧仮名遣いで書かれていたこともあり、読む個所によっては英語の方がすんなりと入ったりして面白いもんだなと思っていました。

 

それからは、たまーに気が向いたときに開く存在になって長く薄く付き合っているのが私にとっての「聖書」です。

 

普通の子供であった私が中学一年生の時、学校の社会科見学で外海のドロ神父記念館を訪れることになりました。

中学生ですから、隠れキリシタンの弾圧のことや昔の生活の大変さ、諸々の歴史を聞いてもあまり興味はありません。

何となく時間をやり過ごしていましたが、いきなり雷に打たれたような衝撃を受けます。

 

それは「出津教会」に入った時です。

まず、その空間の神聖さ、素朴さ、暖かさ、何とも言いようのない安心感と静謐。

初めての感覚が私の全身を包みました。

 

そこで神父さんのお話などもあったと思うのですが、その着席した席に置いてあった信者の方の聖書と讃美歌の本。

使い古されたその聖書からは何とも言えないかぐわしい香りがしたのです。

ページを数枚めくるとポロリと涙がこぼれたのを覚えています。

 

教会にはそのような神聖なイメージがずっとあったのです。

 

先ほど、ゆっくりとした姿勢で瞑想をしていると、クリスマスであるが故の何ともいえないメッセージが湧いてきたので、ここに書き留めておこうと思います。

始めて書く内容ですし、反論される方もあるかもしれませんが、そこはクリスチャンでもないのでお許し願います。

 



神は愛であり、愛は神である。そのことを本当に理解するものは少ない。愛は全宇宙の中心からの光であり、万象万物を生かすエネルギーである。ただこれだけのことを深く深く掘り下げてみるとよい。実感として確信となるまで思索するがよい。ある時そなたは、神が愛であり、愛が自分であり、すべては渾然一体であることに気づくであろう。」

 

全宇宙の中心から流れ出る愛は、鉱物に流れ調和を与え、植物に流れてその姿を表現し、動物に流れてその本性を洗わす。すなわちあなた方人間は愛を表すべき存在であり、体現すべくしてこの世に生を与えられているのだ。そのことを完全に悟った時、あなた方の全身からは愛が満ち溢れ、すべてのものを融かしていくこととなる。」

 

「愛について様々なことを議論することは愚かなことだ。それは愛のわずかな一面を知的好奇心によってあげつらっているに過ぎない。人間の智慧によって理解できるものでもない。愛を理論的にこねくり回すことで愛はその力を弱めてしまう。あなた方は愛の力により生まれ、愛の力によって存在している。そのことを純粋に受け入れ、その強大な力が無限であることを信じることで、愛はその真性を表す。その全貌を観じることとなる。」

 

「愛の強大な力は、その真性はいかにしてその姿を展開しようかとあなた方の中で待機している。息をひそめている。あなたたちの肉体も魂もその愛の力を発現しようとして準備されたものである。このことを自覚することがすべての始まりとなる。」

 

十字架を見つめ、自らの心に問うがよい。あなた方は心身ともに責められ、苛まれ、蔑みを受ける中で肉体の苦痛に耐えながらも、神への愛、人々への愛を貫けるであろうか。神を否認せずに押し通せるであろうか。その強さを保てるであろうか。そのことを常に問い続けるために、十字架を見つめるのである。あなた方を創った神の力、愛の力は偉大である。その力は愛を貫くものに惜しげもなく与えられる。全宇宙を貫く愛の力と一体となるのである。」

 

恐怖と不安は肉体にも精神にも変化をもたらし、破壊行為を続ける。体調は悪化し命を貶めていく。その時こそ、愛の力を頼るのだ。宇宙で最強のパワーを使うのだ。愛はこれら悪循環の解毒剤となる。不調和に調和をもたらし、肉体の全ての細胞と魂を暗黒から救い出す。すべては愛の力のみによって解決するのだ。」

 

ラザロよ出でよ。という言葉は霊的な意味において発せられたものである。肉体が全てであり、死とは消滅であるということを払しょくするためのものである。あなた方は外部からの意見や情報に惑わされ、暗示にかけられている。肉体のあり方を最重要視する。死により肉体は滅び、取り返しのつかないものとなると思い込んでいる。しかし、魂がその本質であり、各人の中心には神と同じ神性が宿り、誰しもがキリスト(真我)を持つことが分かった時、あなた方は私と同じことが容易にできることとなる。愛の言葉によって身体中の細胞は活性化し生き返るのだ。

 

「日本という極東の小さな島国で、さらに西の果ての長崎で、私の教えが大切に伝えられ、命がけで守られてきたことを本当に嬉しく思う。この事実の本当の尊さの意味は、形式的なものではなく、その本質が伝えられていたということだ。まず、本当に真摯に、全宇宙に届くほどの真剣さで祈りが行われ、人々の心の清らかさが保たれていたということである。特にその祈りの質において、その多くが周囲の人々の幸せを祈り、平和を祈り、自然への感謝をし、自らを懺悔するという、自我我欲が本当にない愛の祈りに満ちていた。世界中を見渡しても、歴史的にも地域的にもこのような純粋さは他には類がない。これはまさに愛の体現であり、実践であったと思う。そしてさらには、その愛の教えを守るために命を賭して行動を起こしてきた。恐怖にも不安にも打ち勝って、神を愛を信じて子々孫々伝えてきた。このような人たちは他にはいない。このような人々の子孫が今なお、手作りの小さな教会にて祈りをささげ、愛に満ちた空間を共有していることを誇りに思う。

 

                          了