一昨日、孫が一人増えました。
二人目の孫になります。
自分は自覚はありませんが、いつの間にか「爺」になっていくもんですね。
私が子供の頃は爺ちゃんや婆ちゃんといえばすごく年寄りだったようなイメージですが、いつの間にか自分もその位置にいて、昭和、平成、令和と三時代も生き延びてきています。
最近の年寄りは皆さん本当に若々しいから、昔とは随分と違いもあるとは思います。
女性の70代でも本当に若くて元気ですからね。
私たちが見てきた爺婆とは違う人種になっていますね。
そういう意味において人類は進歩しているのかもしれません。
さて、「親と子」についてですが、こういう新たな命が産まれたり、亡くなったりがあると深く感じてしまいますね。
孫は目に入れても痛くないほど可愛い。。と昔の人たちは言いましたが、実際はどうでしょうか。
遠くに離れて暮らしているせいか、あまりそんな実感はありません。
確かに帰省して接したり抱っこしてるとじんわりとその感覚はあるのですが、日々はその姿をみませんからね。
年寄りのそばに暮らして、爺ちゃん!婆ちゃん!と毎日のように行き来があれば、昔の人たちのような感覚になってくるのかもしれません。
親子については、全く違いますね。
幼いころのしぐさや言動、触れた時の感覚を否が応でもこの身体が覚えていますから、ふとした時にその感覚がよみがえります。
それも突然、ふとした時にその状況が蘇ったりします。
この感覚は死ぬまで抜けないのでしょうね。
男の私でもそうなのですから、お腹を痛めて産んだ女性はこの数百倍もすごいのではないでしょうか。
私は瞑想しているときに、浮き上がるように過去世の断片的な画像を思い出すことがあるのですが、ある時、自分が女性をしていた時の記憶がよみがえりました。
私は黒人の大きな女性で、たぶん100キロぐらい。(笑)
頭にカラフルなターバンのようなものを巻き、メロンを二つ乗せたような胸の上に赤ちゃんを乗せてあやしているのです。
テンパーっぽい髪の赤ちゃんは、まあ~それはそれは可愛くて、愛おしくてたまらないのです。
そして、赤ちゃんが私の母乳を吸うと、微弱な電流でも流れたような感覚に包まれ身体中の力が抜けていったのです。
これは、自分が女性の人生を歩んだ時の記憶か、またはどなたかの記憶の共有かもしれませんが、すごく貴重な体験でした。
世の中の母親たちは、大変な忙しい毎日を過ごしながら子育てをされていますが、こういう神様から与えられた至福感もあるのだなと感激しました。
何かの本で読んだのですが、子と孫が帰省して数日のあと帰っていった時のある老夫婦の会話です。
「まあ、嵐のような数日でしたね。」
「そうだね。」
「お爺さん、孫は可愛いですね。」
「そうだね~。」
「あら、そうでもなさそうですね。疲れましたか?」
「いや、孫も可愛いけど・・。やっぱり子のほうが可愛いな。」
「そうですね。確かに子のほうが可愛いですね。」
これが真実なのだと思うんです。
子が大きくなって、いろんな確執があったり、喧嘩したり、憎しみ合うようなことがあっても、やっぱりいつまでも子は可愛いもんだと思います。
個人差はあるでしょうが、命を賭してでも子を護ろうとする親の姿は自然が用意した当然の行動でしょう。
どんなにダメな親でも、ろくでもない親でも、DVやとんでもない虐待をした親でも、この世の諸々の事情をすべて取り払って、親の感情や行動の腐った部分を取り除くと、まさに無尽蔵の子供への愛にあふれているのだと思います。
魂の奥底にある真我のレベルで本当の悪人ということはないと思います。
ダメ親や問題がある親になってしまったのは、もちろん親自身の責任だし、子に罪はありません。
子はつらい思いを引きずり、憎しみを抱き続けているかもしれません。
でも、ふとした瞬間に、極端な話、親が死ぬ間際に、一番の思い出として蘇るのは子育ての時の幸せな情景ではないでしょうか。
子が親の介護を始めてその弱った姿を見た時に浮かんでくるのは、元気な親に抱かれた時のその温もりではないでしょうか。
親は子にたくさんのものを与え、育てます。
でも、子からも膨大な愛を親は貰っていますよね。
子の身体の中に親の遺伝子が残り続けるように、母親の身体の中にも死ぬまで子の遺伝子は残り続けます。
ましてや、記憶や感情や、エネルギーやそんなものはずっと影響を与え合っているわけですよ。
住んでる場所が遠く離れても変わりません。
子が親を憎むこともあるでしょう。
親が子の生き方を気に入らないこともあるでしょう。
でも、いつかは気づくんです。
その関係性は、強大な「愛」のみであることを。
それ以外のものは、実は存在しないということを。
了