【 大安・仏滅のいわれ 】
・中国の時刻占いが変化
「六曜(ろくよう)」といって、日々の吉凶を示す、いわば暦の『注』です」。
「現代こよみ読み解き辞典」などの著書がある岡田芳郎・女子美術大名誉教授に聞いてみた。
六曜には先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口がある。様々な読み方があり、例えば赤口は「しゃっく」「じゃっく」「しゃっこう」などと読む。それぞれに意味があり、大安は「万事にめでたい日」、仏滅は「仏も滅亡するような最悪な日」だ。仏教に関係あるのか尋ねてみた。「全く関係ありません。六曜は、根拠のない俗信なんです」。六曜はもともと、一日のうちで縁起のいい時間帯や悪い時間帯を決める中国の「時刻占い」だった。それが14世紀ごろ日本に伝わり、江戸時代末期に今のような形になったらしい。
旧暦時の官暦には、日ごとの吉凶が詳しく書いてあった。しかし政府は、明治6年の暦から太陽暦を用いるにあたり、吉凶を「でたらめ」と禁止。それをきっかけに、庶民にわかりやすい六曜入りの暦が民間で秘密出版され、広まった。
ところで、「今日は大安」って誰が決めるのだろう。岡田さんによると、旧暦では各月1日の六曜が決まっていた。たとえば1月1日は、先勝、2月1日は友引だ。これを起点に各月の2日以降は、六曜を順番通りに並べていたという。
「それを太陽暦にあてはめると。一見規則性がなく神秘的に見えるんです」。
・友引は元来「引き分け」
「友を引く」と言われる友引の儀式。国学院大の石井研士教授らが03年に実施した全国世論調査では、「友引の儀式」を気にする人は4割超。60歳以上では半数近かったが、20代は3割弱だった。
「
「友引は元来、『共引』で、勝負なしの引き分けという意味。葬式とはまったく関係ないんです」。そう話すのは、国立歴史民俗博物館の新谷尚紀教授。友引は、陰陽道で「友に災いをもたらす方角」とされる「友曳引」と混合されて、広まった可能性があるという。
「でも、友引が広まった理由がもう一つある」と新谷教授。日本には古来、「死者は寂しがって生者を引っ張る」という考えがあった。そこから、死者と同い年の人が年齢を増やす意味でモチを食べる風習や、亡き夫の棺に妻は涙を落としてはいけないという言い伝えなどが生まれたという。「そんな考え方に、友引が合ったんですね」。
友引を気にする人は減っているようですが、新谷教授は「今でもお坊さんの会合は、葬式のない友引に開くと参加者が集まりやすいようですよ」。
以上で、日本の伝統美を考えるシリーズを終了します。
今後もご愛読宜しくお願い致します。
吉岡
【 節分 】
二月三日は節分。もともと節分とは、立春、立夏、立秋、立冬など季節が改まる前日のことを呼びましたが、現代では、立春の前日だけを「節分」と示すようになりました。節分を境に、暦の上では翌日から春になるとされています。
豆まきの行事は古代中国で、邪気や疫病などを払うため、鬼の面をかぶった人を桃の木で作った弓矢で追い払う「追儺(ついな)」という儀式が起源とされています。
日本で豆まきの行事が定着したのは、室町時代中期以降とされ、豆を年の数だけ食べると邪気を追い払い、病に勝つ力がつくと考えられていたそうです。
鬼の目を刺すという柊の枝に、魔除けの効果があるとされる鰯の頭を刺し、戸口に飾る風習も広まりました。
もう一つ、関西で広く親しまれているのが巻き寿司の丸かぶり。歳徳神がおられる恵方を向き、願い事をしながら無言で食べると福を招くとされています。
この風習は言い伝えによると、幕末から明治の初めに大阪・船場で始まり、「商売繁盛」「無病息災」「家内円満」などの祈願事として盛んになったそうです。
「福」を巻き込む巻き寿司は細く長いので縁起が良いとされ、縁を切らないために切らずに、丸ごとかぶるようになったとか。
にぎやかな豆まきに、今年の恵方「南南東(*毎年異なる)」を向いての招福の巻き寿司丸かじり、魔除けの鰯、厄除けのお饅頭など、節分は、家族みんなで美味しく楽しむ行事ですね。
*地方の巻き寿司を一部紹介します。
①幸運巻:巻き寿司の中に穴子をぎっしり詰めたもの
②来福巻:穴子や海老など色とりどりの豪華な具を玉子でぐるりと巻いたおめでたい巻き寿司
③幸福巻:上巻き寿司・焼き鰯・節分豆に柊を添えたもの
次回は、大安・仏滅のいわれです。!!
【 ひな人形 】
人形問屋が建ち並ぶ大阪・松屋町で「なぜ、男(お)びなと女(め)びなの座る位置が二通りあるのか」と尋ねてみましたら・・・。(朝日新聞より)
「女びなが向かって左にあるのは、京都生まれのひな人形です。京都の置き方にならって飾っています」と、大正時代までは、こちらが普通とのことでした。
全国で逆になったのは、昭和天皇が即位された際、西洋風に向かって左に立たれたからです。しかし、京都だけは昔ながらのやり方を厳守されていると・・・。
「では、京都式はなぜ女びなが左?」と、京都文化博物館の学芸員の藤本恵子さんに伺ってみました。「京都御所での天皇様の立たれる位置からです」とお答されました。理由は、「御所の建物は南向きです。そして天皇様と皇后様が並ばれる際、太陽が昇る東側に天皇様が立たられことからと言われています」。
立つ位置だけではありませんでした。左右のお花も違いました。
京都では御所の庭に合わせ、向かって右に桜、左に橘。しかし江戸びなでは、紅白の梅が飾られるそうです。
もっと詳しく知りたくて、歴史について調べてみました。
ひな祭りは、もともと紙のひなを川に流してきました。江戸時代に今のようにひな人形を飾るようになり、だんだんと豪華になっていった。
江戸後期の本「守貞慢稿(もりさだまんこう)」には、当時の東西のひな人形の違いが書かれてありました。大きな違いは二つでした。
一つは、段の数。京都・大阪は二段ほど少ないが、上の段に御殿を飾る。お供は二人。江戸では御殿はないが、七、八段あって豪華。官女や五人囃子も飾る。藤本さんによりますと、「京都式の御殿飾りは、昭和十年くらいまでで姿を消しました」と話されました。
もう一つは、道具類。江戸時代では、漆塗りのタンスや鏡台など、嫁入り道具のミニチュアを飾り華やか。
もう一方、京都や大阪では木製の台所道具や食器、おくどさん(釜)を飾った。
藤本さんは「京都では子供に倹約の心や家事を教えようとしたからです」。
読者のお便りも届いた。
一般にはいな人形は、立春のころから飾り、三月三日が過ぎたら片付ける。
だが、
これは明治以前に使われた古い暦、旧暦で節句を祝う土地の習慣。京都の旧家
や淡路島などにもある。徳島県宍喰(ししくい)町では、旧暦の八月一日「八朔(はっさく)の日」に祝う習慣が残っている。
また、
その季節に、その地域で取れるもので祝ったんですね。
次回は節分です。!!
【 茶室 】
1.歴史
奈良時代に伝来したお茶が茶の湯として親しまれ、現代にいたる形式を整えるのは室町時代中期以後のことですが、数奇屋とも呼ばれる茶室の完成を見たのが、千利休らの茶人が現れ茶道を確立した桃山時代のことです。それまで茶の湯は書院座敷で行われていましたが、茶道の精神である「侘(わ)び・寂(さ)び」を表す草庵茶室が造られるとやがて主流となりました。
農家の納屋を手本とした質素で趣のある茶室は、洋風化する建築の中で最も日本的であるといわれています。
2.現代
茶室といえば母屋から独立した草庵茶室が有名ですが、ほかにも書院の中に設ける書院式茶室があります。
現代の一般住宅では草庵茶室はもとより、書院自体設けることも少ないために正式な茶室を造る例はあまりみられなくなり、和室の一画に炉を切ったり水屋を設けるなど、略式の茶室が多くなりました。
茶室の雰囲気を演出し、お茶を楽しむ上では形式にこだわる必要はありませんが、正式な茶室を設ける場合は決まり事を踏まえることが大切になります。
次回は、ひな人形です。!!
