旧映研委員長の映画エッセイ | 東海大学 映画研究会ブログ

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『私の映画人生・日本映画の灯りは消えず』

 

 

目次


 

1, なぜ日本映画は滅びるのか

 

2, 大映通り商店街に

3, 私のおすすめする日本映画の名作選

 4、今後の日本映画はどうなるか


5、映画館に付き物のカメラ男の威力


6、高評価される作品の断末魔


 

「なぜ日本映画は滅びるのか」

 

今日映画はテレビやネットメディアの普及により絶滅危惧種状態であることはどなたもご存じであろう。映画館に行けば客席は4割入っているかいないかだ。たまに人気ドラマの劇場版などを見に行くと満席の客席を体感することができれば概ね映画ファンは満足という感じである。

 しかし海外から輸入されてくるハリウッド映画などは大人気である。なぜなら日本映画との制作費用の規模の違いや外国映画ならではの特徴と魅力があるからだ。

 日本映画が衰退しだしたのは昭和30年代の映画黄金時代末期ごろからだ。衰退しだした原因の一つはテレビの普及ということである。

 なぜなら一般人の思考は「映画館に行かなくてもテレビの前に座れば無料で映画が観れるから」に変わったからだ。確かに言われてみればその解釈も一理あると私は思う。

 

 

このころから映画会社も存続のためにテレビドラマの制作に参入した。そのため映画の撮影所はテレビドラマの撮影所に変わったのである。

 日本映画が衰退せざる得なくなってしまう状態を作ってしまったのは当時の映画製作陣たちである。

 なぜならこのころから映画のアクションシーンが「様式美」から「ハードボイルド」に変わったからだ。

 その一例として挙げられるのが黒澤明である。黒澤は『七人の侍』『用心棒』などで様式美のアクションを批判し「リアルな殺し合い」というアクションを確立した。これによって様々な映画会社も右に倣えで昭和30年代末期ごろから製作する映画のアクションシーンをリアルなアクションに変えていった。

 こうするとこれまで映画館に足を運んでいた人々は遠のいてしまうのである。なぜならいままで幼少期のころから大人になるまで(今の70代~)「様式美」での映画のアクションシーンを育った人々は「リアルなアクション」になじめななってしまうからだ。

 私も「様式美のアクション」の映画を小さい頃から見て育ってきたため血が出てくるなどのグロい描写は苦手である。

 私の経験したこのようなことが当時の一般大衆にもあったと読みとれる。一口に「テレビが出現したから映画が衰退した」と言われることが多いがそれは違と私は思う。

 テレビが普及しても「誰が見ても明るく楽しい娯楽映画」として一般大衆に受け入れられる作品を作れば映画館にお客さんは足を運んだと思う。

様式美のアクションではないリアルなアクション映画ばかりを製作しだしたから映画館に人は足を運ばなくなったのである。

当時の人々は「映画館に行けばまたリアルなアクションか」という解釈なってしまったからだ。今私は大学生であるが当時生きていたらこのような解釈にもなったと思う。

 また粗製濫造を繰り返し過ぎてしまったのも原因の一つだ。当時の人は映画の中身というよりも「映画館に行けばスターが見れる」という解釈で映画館に足を運んだため作り手たちもその波にあやかってしまったからだ。

 なお中身のない娯楽映画は大いに楽しいが勧善懲悪ワンパターン一点張りでは流石に飽きられてしまう。

 当時の様式美アクション時代劇映画(1960ごろ〜)に客が入らなくなったのもそのせいではなかろうか。

今はリアルなアクション作品は珍しくないが当時はリアルなアクションシーンというのはそっち系が好きな一部の層を除いて大半の人々が馴染めなかったからである。しかし、明るく楽しい映画には庶民たちは受け入れられていたのである。

なぜならクレージーキャッツ映画などの昭和3040年代の歌謡コメディ映画は大ヒットしたからだ

おそらくクレージーキャッツ作品もそうだが当時はサラリーマンミュージカル映画がブームだったのは、日本が高度経済成長真っ只中であるからだ。

これは誰がなんと言おうとそうだと私は思う。だからこそヒットしたのだ。

ここは当時の東宝の監督やプロデューサーたちの腕前のおかげだ。

なので私としては昭和30年代後半から映画は衰退していると誰もが口にしているがそうではないと思う。

そのため日本映画が衰退したのは「当時の作り手たちの責任とTVの出現」なのである。

 しかしこのようなことも慎重に判断せねばならないため「答えの無い問題」となるため複雑な出来事である。

 日本映画が衰退した理由も人それぞれである。時にはその論評の執筆者の感情論になることがある。

 私は映画評論や関連書籍を沢山読むことがあるためそれはよくわかる。



「大映通り商店街にて」

 

この間私は一人で京都の街に34日で行ったのである。まずは「京都タワーを登って」など観光も楽しんだが、私の旅の目的は「日本映画ゆかりの地」だった。

 なぜなら日本映画が発祥したのは京都であるからだ。私は真っ先に撮影所前駅を通過して「大映通り商店街」へと向かった。もちろん映画村でも時代劇扮装衣装体験などもした。

私が「大映通り商店街」へ行ってうれしい出来事があった。それは商店街の街灯の上にフィルムカメラが乗っていたことだった。

ここはかつて大映撮影所のオープンみたいな商店街で撮影合間のスタッフさんや役者さんなどでにぎわっていた場所だ。しかし、私がこの目で見た今の「大映通り商店街」の風景は違っていた。それは人がそんなに歩いていないという現状であった。

日本映画そのものが衰退しているということを実感したが、この商店街を歩いていたら私は「なんだか楽しい気持ちになった」のである。

なぜなら映画の温もりそのものを感じたからである。おそらくこれは大映通りを歩いた映画ファンの人ならだれでも実感できることだろう。

この通りには日本映画の父・牧野省三(マキノ雅弘の父親)先生が祀られている「三吉稲荷神社(映画神社)」もある。

私も「三吉稲荷神社」に参拝をしたのである。その後この通りを歩いていたら

「感染症対策をした?大魔神」と遭遇したのである。『大魔神』シリーズと言えば当時の大映の看板映画であった。

ここに大魔神像が建っているということはここが大映撮影所ゆかりの場所であることを象徴しているのだ。

今はほぼ人通りがないのが少し日本映画ファンである私が哀しくなる出来事である。

ここは本当の日本映画の街であるということを私は実感した。

ここ最近私は京都に行くことが多い。その際は何があっても必ず大映通り商店街には立ち寄ることにしている。この場所では日本映画の温もりを感じるが、大映通り商店街そのものが日本映画が衰退して寂しいよと叫んでいる声が自然と私の耳に聞こえてくる。


「私のオススメする名作映画」


ここ最近の映画でもオススメ作品は多々あるがそれは後日Twitterの方か、このエッセイの続編で紹介予定である。またここ最近の映画も映研Twitterのほうで絶賛掲載中であるため機械が有ればぜひご覧いただきたい。


私の場合はいずれも文芸映画と称されるA級作品「映画史に残る名作」よりも隠れた名作映画「すでに公開当時の時点でヒットはしたもののその後姿を消した名作映画たちを観ることが多い!


「この作品が名作映画だと」今日映画を知らない、興味の無い人までもが知っている作品はいずれも誰か有名な評論家が高評価した作品であるため「人がこの作品を名作だと言うから自分もそう思う」これでは真の名作映画とは出会えない!自分にとっての名作は「この映画だと」言える作品を選ぶことが重要である。



『ニッポン無責任時代』(1962/東宝)


植木等主演の楽しいミュージカル


不景気な今の世の中に必要な名作


この作品で植木等の扮する無責任男像が世の中に定着した娯楽映画

結婚披露宴で植木等扮する主人公が歌って踊るラストのミュージカルシーンは必見


『鴛鴦歌合戦』(1937/日活)


片岡千恵蔵主演のミュージカル!日本初のオペレッタ時代劇!娯楽映画の決定版。この間宝塚でリメイク演劇が上演された。監督は巨匠・マキノ雅弘


『七つの顔』(1948/大映)


時代劇がGHQの検閲で撮れなかった時期に刀をピストルに変えた探偵アクション作品!時代劇風現代劇の娯楽映画。スタッフも出ている役者さんもみんな時代劇の役者さんたち


『鞍馬天狗・大江戸異変(角兵衛少年と天狗騒動)』(1951「1958年タイトル改題」/新東宝)


本作はあの嵐寛鞍馬天狗映画戦後第一回作品!当時の社会情勢(孤児の子供たち)も反映されており鞍馬天狗が孤児の子供たちを助ける物語!嵐寛天狗は当時の少年少女たち(今の70代〜)のアイドルであったがまさにそれが本作で象徴されている。ラストの大チャンバラは必見の娯楽映画



「今後の日本映画はどうなるか」


今後日本映画は発展していくと私は思う。なぜならここ最近映画は衰退してもSNS動画配信サイトでの配信ドラマ、映画 があるからである。

これらの作品はいずれもヒットしているケースが多い。

そのため映画館に人は入らなくても人はそれらの映画を日常的に楽しんでいることになる。

 しかし、いち早く日本映画🎞️が一般大衆に受け入れられ映画館に人が入るように何か対策をしていかなくてはならないことは目に見えている。

また映画館の入場料が高いのも人が入らない原因だが、これには訳がある 映画興行の場合「入場料(映画鑑賞料1800円のうち映画館の取り分が4割、配給会社の取り分が6割」と言う感じである。また映画館はその取り分の中から電気代、従業員の給料などを出すためほぼ赤字状態である。その赤字を回避するためにポップコーン🍿などのフード販売、その映画のグッズ販売などをしているのである。一口に「映画館は儲かるでしょ」とは言えない。映画は高級娯楽と言う解釈が庶民の中に定着してしまったことも問題だ。今日私はよく名画座(ミニシアター)で昔の映画🎞️の再上映を鑑賞するが、そう言う映画館でも安いところでは600円で鑑賞できる(東京都心部に沢山ある)。

このように安く映画館で映画鑑賞することはいつでも可能なのである。

映画は観た後の感覚が大切である。中には高い入場料を払って観るだけ損したみたいな作品も多々あるため高い映画鑑賞料を支払う際は「その映画館スタッフの頑張る姿に払う」と思えばいいのではなかろうか。

この「高い入場料払うだけ損した」みたいな感覚に今までなった方も多いだろうと思う。私も昔そのような感覚になった新作映画も数本ある。

私もいつも割引「学割」やその他の割引を使って映画館で映画鑑賞しているが、いつも映画館のロビーでチケットを買うときは必ずこのように思いながら支払っている。

そうすると「たとえ観た映画がつまらなくても良い気分になれる」しかしその感覚が身につくにはかなりの時間がかかる。私もそうだった。


映画は高級娯楽と思い込むのではなく「映画館スタッフの頑張る姿に払う対価だと」思えば自然と映画館へ行って入場料を惜しまずに支払うことができるのではなかろうか。

確かに言われてみれば入場料「1800円」は高い。また学割でも「1500円」特別割引でも「1200円」である。

またポップコーン🍿とかも買えばすぐに2000〜3000円が財布から飛んでしまう。

ここも映画館に人が行かなくなった原因かもしれない。

今はSNSやレンタルビデオショップで誰でも安く映画を観ることができる。

安上がりで映画を観たい人は映画館に行かなくなるのは当然である。私の知り合いも「新作映画は映画館では観ないで後日DVD化されてからレンタルして観る」と言う人もいるため映画そのものは衰退していないのだと考えることができる。

その人に何故映画館に行かないのかと質問したところ「入場料が高いから」と言う一言返事が返ってきた。

そう考えると「新作映画は観たいけど入場料が高すぎて...」みたいな感覚になる人も多いと考えることができる。

その高い入場料を回避するために映画館は「シネマイレージ」や「大手携帯電話会社のアプリでの割引」などの特典を用意している。

この割引は、映画館に人を入れるための苦心の果ての策だと私は思う。

このように映画館も人を入れるためにかなりの努力はしているのである。それでも入場料が高い問題はついて回るのが厄介な問題である。

「1800円」「1200円」「1500円」のどれかが有れば安く食費をすれば2、3回分の料金にはなる。

そう考えると食費数回分を「観て楽しいか楽しくないかがわからない映画(予告編だけでは面白いかどうかがわからない)には出費を惜しんでしまう人も出てくる」


入場料が高い問題は今に始まったことではないのだ。なぜなら昭和30年代の映画黄金時代の時点でその問題は生じていた。当日映画鑑賞には映画税と言う料金が加算されていた。当日の入場料が「子供70円」「大人130円」と言う料金であった。当時は50円でカレーライスが食べれた時代であるため今で言えばこの金額は1000〜2000円ぐらいの幅になるのではないかと思える。

映画税が高い時には50円であった。今は映画税なんてものは発生しないため安心である。

高い時には映画税含めて入場料が130円の時もあったらしい。それでも庶民は映画館に足を運んだのは映画館に行きたかったからではなかろうか?

また当時お小遣いが少なく映画館の入場料が払えない子供たちは映画を無料で観るためにしていた裏技があった。

それは映画館内でのフード売りのアルバイトである。どのような内容かと言うと「映画館のスクリーンで映画上映中 そのスクリーン内を歩いて販売する」と言うことであった。このバイトは映画を観たい子供たちに大人気のバイトであったらしい。だって無料で映画が観れると同時にお小遣いも稼げるからだ。

今の映画館でのフード販売は劇場ロビーだが当時はこんな感じであった。

そのため大人から子供まで誰もが映画館に行ったのだろうと考えることができる。


しかし、「映画館に足を運んで映画を観るか観ないかはあなた次第である」



やはり映画は庶民の娯楽なのだと思う。




5、日本の映画館に付き物のカメラ男の威力


映画館に映画を観に行くと毎回上映冒頭にあのカメラ男の映像が流れるのは皆さんご存知であろう。またその映像を100%観たであろう!


それは「ストップノーモアー映画泥棒」この女性のナレーションと共にカメラ男こと映画泥棒の登場だ!またカメラ男を追いかけるレッドサイレン男も登場し30秒程度の寸劇みたいな映像である。


この「カメラ男の映像」も映画衰退の原因の一つであろうと考えられる。

なぜならこの映像はもちろん必要だと私は思うが、明らかに「これから映画を楽しもうとする人たちの気分を害してしまう」からである。

ところがアメリカでは映画館は大入り満員状態が多々あるのは秘訣がある。「映画館やライブ会場では撮影自由」というシステムと法律があるからだ。実際に私もアメリカに留学してた友人から「その友人も含めて映画のスクリーンにスマホを向けて掛け声を出している大勢の観客の風景の映像」をその友人のスマホで見せてもらった。その映像から読み取れたことはアメリカの映画館では、その映画の音声よりも観客の掛け声の方が大きく本編が聞こえにくいと言うことであった。「この観客の掛け声が大きくて映画の音声が聞こえない状態」はかつての映画黄金期の日本そのものが投影されている。

これは私の勝手な解釈になってしまうが、「日本もアメリカのように映画館やライブ会場では撮影自由」にしてしまえば良いと思う。

流石にわざわざ映画を盗撮しに映画館に来る人は90%居ないのに「カメラ男の映像」が出てしまえば観る気がなくなってしまう。

「せっかくこれから映画本編を楽しもうと思っているのに」と。


しかしこの「カメラ男の映像」は日本の大手映画会社でも消すことのできない仕組みらしい。

映画を公開する段階で配給会社のロゴマーク映像とセットで「あのカメラ男の映像」がついてくるらしい。(著者自身が某大手映画会社の元プロデューサーの方にお会いした時直接本人から聞いた話)そのため日本ではどんな対策をしようとも「カメラ男の映像」から映画館や映画会社は逃れることができないのである。

これも仕方がない出来事であるのはしょうがない。だが私はこの「カメラ男の映像」があるからこそ人が映画館に入らない原因なのではないかと思うのである。

これは答えの無い複雑な問題であるから仕方が無い。

この間私はデパートのレストラン街に食事に行った際、その建物のガシャポンコーナーに「カメラ男」のガシャポンがあるの見ましたけど。

「とうとうカメラ男の威力はガシャポンにまでなってしまうのか」と感心してしまった。

まあ「映画館に行く際そのカメラ男の映像は一応何も考えずに閲覧だけはする」この手法で映画館に行けば一段と映画が楽しくなる。著者はいつもこの手法で映画館に行っているため「映画を心の底から楽しむことができている」


皆さんもカメラ男の映像に関してはこれを心がけていただきたい!



6、高評価される作品の断末魔



今日名作と称される作品はいずれも文芸評論家たちが高評価した作品群である。


その裏でロクな評価もされずに公開当時限りで消えた名もなき作品群たちがある。


しかし、その名もなき作品群の中にこそ楽しさの本質と魅力が詰まっているのである



「評論家受けする作品は客の入らないベストテンです」(映画監督・並木鏡太郎晩年の証言)


「評論家や学者など口うるさい観客が出てきたからこそ作り手は優れた作品のみに走ろうとするのである」(映画評論家・春日太一の証言)


「名もなき作品群こそ楽しさの本質がある」(立川談志の証言)


「評論家からの評価は鰻登りに良いものの客が入らない」(映画評論家・竹中労の証言)


どちらかと言えばA級作品(文芸作品)に重点が置かれているのは非常に遺憾である


名もなき作品はいずれもB級とC級の間を行き来している


また評論家目線でプログラムピクチャーや単純な時代劇に無意識に触れてしまうからこそこのような事態が招かれるのも大変おこがましい


とにかく頭を使わず何も考えずに楽しめるからこその単純な作品なのである。




「とにかく頭を使わずに明朗、痛快、単純に楽しもう」



ここが評論家から評価対象外にされるミゾなのである


基本的に評論家は子供番組や単純な作品は評価対象外にしていることが多いですよ



私も作品作りをしているかたわらここらへんを行き来しているのであると実感している。