雨の日に想うこと | tokaiama20のブログ

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 滅多にない三連続降雨で、何もできることがなく、のんびり風呂に入りながら、自分の衰えた肉体をしげしげと眺めつつ想うことは、

 「この肉体とも、もうすぐお別れになるのだな」

 という感慨だ。

 

 とにかく、体中が痛い。起き上がるときは、「よいしょ」と声をかけなければならなくなった。無理をすれば、たちまち腰痛に襲われる。

 きつい運動をすれば、体を止めて激しく呼吸しなければならないので、家が片付かない。まさにゴミ屋敷だ。

 ブログを書いていても、細かい文字が見えないので、アップしたものは間違いだらけだ。誤字脱字などあたりまえ。

 

 肉体以上に知力が衰えている。

 今思い浮かんだアイデアを数秒後に忘れてしまう。昨日、どんなブログを書いたのか思い出せない。鍵やメガネをポンと置いても数秒後には見失ってしまう。何かを買うつもりで店に出向いても、何を買うつもりだったのか思い出せない。

 明らかな認知症の初期段階だ。

 

 必死になって、歩くことや、DHAサプリを飲むことで抵抗しているのだが、物忘れや精神力、アイデアの衰えが日々進行する現実から逃れることができない。

 「これが老いというものなのだ」

 と、直視したくない現実が覆いかぶさってくる。

 若い頃、これほど自分が劣化することは想像もしていなかった。

 

 一人暮らしなので、老いてゆけば、やがて調理の火を消し忘れたり、バイクで出かけるときに転倒したり、事故を起こしたりする確率が、若い頃よりも格段に上がってゆくので、いつか致命的な失敗をして命を落とすことは避けられないと思う。

 間質性肺炎も必死に歩くことで半分程度は治ったが、残りの半分は、どうしても治らず、ときどき呼吸が苦しなくなって、死を意識することが多い。

 

 死が一歩一歩近寄ってくる。まるでモーツアルトが自身の死を予感して作ったレクイエムを聞きながら怯えているようだ。だが、もう死を避けたいとは思わなくなった。

 父や母は、90歳以上生きたので、死んだとき何の感慨も起きなかった。それは、雨が降って風が吹くような、自然の一シーンにすぎなかった。

 両親は、子供たちを死によって悲しませないために、必死に生きたことがよくわかる年になった。

 

 自分は子供がいない。だから、ただ老いて風化し、朽ちてゆけばよいので、むしろ家族に恵まれなくて良かったかもしれないと思うこともある。

 ちょうど、山の獣たちが死を悟ると、誰にも見られないように姿を隠す気分に似ているかもしれない。この世に何も残したくない。まるで存在しなかったかのような人生で終わりたい。

 

 私は若い頃から、たくさんの山歩きを行い、人の行かない千古斧鉞の入らぬ森が好きで、アルプスの沢登りなどで積極的に歩いてきた。

 しかし、半世紀以上、数千回もの山歩きを重ねても、「獣たちの屍=獣墓場」を目撃したことがほとんどないのが不思議だった。

 

 獣たちは、自らの屍を見せることを極端に嫌っているように思える。もしかしたら、人の行かない山奥のどこかに、獣たちが死期を悟ってゆく墓場があるのかもしれないと思った。

 

 深沢七郎の楢山節考には、おりんが息子の辰平に負ばわれて楢山の七谷に捨てられる。そして帰路、雪が降ってきて、息子は「良かった」と思う。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B1%B1%E7%AF%80%E8%80%83

 私は、山の中で七谷を探し求めて彷徨ったのかもしれない。しかし、とうとう見つけることはできなかった。

 私は、自分で幻の七谷に向かって歩いてゆかねばならない。飛び降りで知られた近所にある高い橋の上からダム湖を見て、「これが七谷なのか」と思ったりした。

 

 ほとんどの人は、「世間」を意識し、比較のなかで生きている。

 「みんな」というアイデンティティのなかで、「みんなと同じ人生」という落とし所に人生の当たり障りのない満足を見出そうとしている。

 だから、「世間による同調圧力」とは、逆に「世間に対する甘え」でもあった。

 世間から外れまいとして生きているのだ。

 それが日本という社会における人生観、価値観の根源にある。

 

 私は、若い頃から霊的世界について考える機会が多かった。それは、常識では理解できない超常的な体験をすることが少なくなかったからだ。

 しかし、釈迦は、「霊的世界を考えることには意味がない」と語っている。「見えない世界」に囚われるよりも、「見える=現実の世界」のなかで、人生を全うせよと言っている。

 「高尚な理屈のなかに生きるのではなく、目の前の人の笑顔を求めて生きよ」

 と言っているのかもしれないと思った。

 

 「見えない世界」を論じ、実在するかのように生きることは、もしかしたら間違っているのかもしれない。宗教的世界は、あってはならないのかもしれない。

 「優れた理論」の実現を求めるのではなく、ただ、目の前にいる人々の幸せを喜ぶ心だけで生きなければならないのかもしれない。

 そう思いだしたのは、たぶん40歳を過ぎてからのことだ。

 

 だが、私は考える必要はないと釈迦が指摘した「死後の世界」を考え続けた。そして、今生きている世界と死後の世界が2つある意味を考えていた。

 私は、現実世界が茶番劇であって、死後の霊的世界の方が、実は本当の世界ではないかと感じるようになった。

 そうでなければ、現実のリアルな世界が、数え切れないほど「生まれ変わり」ながら続くことの意味がないからだ。

 

 今あるリアルな感覚的世界は、感覚を通した体験を重ねることで、その意味を理解することに存在理由があるのではないかと感じる。

 一つ一つの人生の積み重ねによって得られるものがある。一つの人生だけでは不十分だ。無数の人生が必要なのだ。そこから導き出される形而上学的価値観が、実は生命体の本質なのではないかと考えるようになった。

 あらゆる現象の経験から、本質=知恵を抽象して、合理性を導き出すこと。

 これが、ヘーゲルが指摘した「絶対精神=イデー」のプロセスなのではないかと思った。

 

 終末を感じる私の肉体は、ずいぶん感傷的な思いを引き出すのだが、ひとつの人生の終わりを感じる向こう側に、絶対精神へと向かう私のプロセスでも見出しておかないと、なんとなく惨めさを感じてしまう。

 今は、衰える肉体と頭脳に、特別な意味を付与しておきたいと勝手に考えている。そうでもしないと、今の私は、あまりに悲しいのだ。

 

 もうすぐ、たぶん数ヶ月以内に、東日本大震災を超える規模の凄まじい巨大震災がやってくると確信している。

 私は、これまでの人生で積み上げた宏観観測経験を総動員して、毎日、巨大震災の前兆現象に神経を尖らせている。

 

 次に起きるであろう南海トラフを震源とする超巨大地震は、たぶん何百万人かの命を奪うことになると思う。

 伊方原発や川内原発も崩壊させるかもしれない。

 そのタイミングで中国やロシアが核攻撃を行う可能性さえある。また新型コロナどころではない凄まじい疫病に襲われる可能性も増している。

 

 私より若い人たちは、寿命を残したまま、あの世に旅立たねばならなくなるかと思うと残念だ。

 しかし、肉体が滅んだとしても、必ず次の肉体が得られると考えてほしい。

 我々は、肉体という船を乗り換えながら、「絶対精神」に向かう航海を続ける宿命なのだ。

 

 次に作り出す社会は、はるかに合理的で、人々が大きな笑顔のなかで、平等に過ごせる社会にしたいと思う。