今回のテーマは,戦後の「東海道新幹線」計画です。

昭和20(1945)年8月15日,昭和天皇による「玉音放送」をもって太平洋戦争は終戦を迎えました。

 

【戦後復興と鉄道輸送】

  戦後しばらく,日本の鉄道は鉄道設備の復旧と併せて「敗戦三大輸送」として以下の輸送が主な仕事でした。

①軍隊等の復員引揚輸送

②疎開者の都市復帰輸送

③占領軍輸送

 これらの業務に忙殺された国鉄では,とても「弾丸列車」計画を再検討する余裕など1ミリもありませんでした。

 しかしながら,昭和20年代後半から30年代にかけて経済が復興から成長過程に入り,道路整備の遅れなどもあって鉄道による旅客・貨物輸送の需要は非常に高くなりました。

 そのため,東海道線を筆頭に国鉄の主要幹線は輸送力が逼迫してきました。たとえば,東海道線名古屋地区では,普通,準急,急行,特急といった旅客列車の他に貨物列車を合わせて片道200本の列車が運行されていました。輸送需要の逼迫は経済成長を阻害する要素ともなり,国鉄における主要幹線の輸送力増強は緊急性の高い課題でした。

 

【東海道線の輸送力増強】

 国鉄は,昭和31(1956)年5月に「東海道線増強調査会」を設置。対策の検討を始め,次に示す三つの案が議論されました。

①東海道線を狭軌のまま複々線化

②狭軌別線建設(客貨分離,或いは緩急分離)

③広軌別線建設(緩急,貨物を分離増強)

 当時,有力だった意見は①案でした。

主な理由は,少ない経費で実行できること,出来上がったところから使用できること,現有車両でそのまま対応可能であることでした。

 これに対して,当時国鉄総裁に就任した十河信二氏広軌別線案(③案)を主張しました。その根拠は,彼が戦前に満鉄理事として仕事をしてきた経験によるところ,「将来の高速化が可能である」ことでした。

 昭和32(1957)年5月,鉄道技術研究所の講演会が東京・銀座のヤマハホールで開催されました。この講演会は「東京~大阪間 3時間への可能性」と題して,同研究所の技師が超高速列車(最高速度250km/h)による輸送の技術的可能性を発表したものです。この講演会に登壇した技師は三木忠直(みきただなお)氏,松平精(まつだいらただし)氏,河邊一(かわなべはじめ)氏の3名で,旧日本軍で戦闘機設計,戦闘機の機体振動研究,軍艦の信号システム研究に従事していました。彼らが「戦争のために研究してきた技術を平和のために活かす」という信念で続けてきた研究成果が現在の新幹線の基礎となりました。

 昭和32年8月,運輸省に「日本国有鉄道幹線調査会」が設置されました。東海道線の輸送力増強方策について学識経験者を交えて検討が進められ,

昭和33年7月に「東海道新幹線(広軌別線)によって東海道線の抜本的増強を図るべき」という答申が出ました。同年12月,東海道新幹線の建設計画が閣議決定されました。

 昭和34年4月20日,新丹那トンネル東口(静岡県熱海市)にて東海道新幹線建設工事の起工式が挙行され,十河氏が鍬入れをしました。

 

〔参照〕

須田寛・福原俊一『東海道新幹線50年の軌跡』(JTBパブリッシング・2014年10月)