『鏡王女物語』推薦文 古田武彦ー4,5,6
『鏡王女物語』推薦文 古田武彦ー4,5,6
(四)
「では、なぜその“タリシホコ”が九州の王者だと判るのか。」
そのように「問う」方がありましょう。その通りです。しかし、その理由は簡単です。この「日出ずる処の天子」の「名文句」の直前に、「阿蘇山あり、その石、故(こ)なく、火起こりて天に接す。」とあります。有名な九州の阿蘇山です。「故なく」というのは“古い石がなく、絶えず新しい石を噴き上げている”という意味です。あの活火山、阿蘇山の噴火の実際を見ずには書けない、生き生きとした「達意の名文」です。
ところが、これに対して推古天皇のいた「大和(奈良県)」なら、出ていい「大和三山(香久山・畝傍山・耳梨山)もなく、大和盆地をしめす、「山迫りて、天狭し」といった形容も、全く「なし」です。それどころか、九州から大和へ至るための途中にある瀬戸内海をしめす、たとえば「一海あり、湖水のごとし」といった「せりふ」もまた皆無なのです。
やはり、この「タリシホコ」の都は、「大和」ではなく、九州にあった。そう考える他、道はない。わたしには、そう思われるのです。
(五)
「では、その九州王朝の歴史は、どうなっているのか。」
そういう質問がでましょう。当然ですが、残念ながら、その解答はストレートには出しにくいのです。なぜかといえば、ズバリ、九州王朝自身が作った「歴史書」が残されていないからです。
確かに、現在の日本書紀は、今問題の「九州王朝の歴史書」を再利用し、「リフォーム」して、近畿天皇家(大和朝廷)用に“作り直され”た形跡が十分です。
「リフォーム」といえば当世流行。“かっこいい”ひびきですが、残念ながら実はスッキリしていません。」なぜなら、いさぎよく「九州王朝」の存在を認めた上で、それを「リフォーム」に使ったのなら立派です。文字通り「安心:なのですが、実際はそうではありません。あたかも「九州王朝はなかった」という“立て前”をとり、はじめから「自分中心の歴史」があたかも一貫していたかのようにした、いわゆる「偽造」です。ハッキリいえば、「盗用」の形なのです。
それをスッキリととり除き、九州王朝そのものの歴史と、その「分家」だった筋だった、近畿分王朝との“かかわり方”を考える。これが今回の、中村さんの企てられた壮大なイメージだったのです。それが「小説」という形をとって、自由に、自在に、そして伸び伸びと書きすすめられているのです。
わたしには、敬服する他はありませんでした。
(六)
もちろん中村さんは
「これがまちがいない史実だ。」そんなことを言っておられるのではありません。全くありません。
架空の人物を何名か“独創”し、彼等を登場させて、人間くさい恋や悩みがつらねられます。その人々の間で「歴史」が進行するのです。時代が次々と展開してゆくのです。見事な腕前です。
それだけではありません。それらの物語の節目々々に、自作の歌が“はめこまれ”ています。それも万葉風の「古代」めいた歌なのに、その「物語の中の登場人物」の古意や悩みや時代の移り行きに対する感慨などが生々しく“ひそめ”られ、歌われているのです。
小説家が自分の作品の中に、あたかも「昔から伝承された歌」の形をした、実は「自作のウタ」を“引用”して使う。これは「あぶない」方法です。うまく作ってあればあるほど、読者がそれにだまされやすいからです。
たとえば、深沢七郎の「楢山節考」には古い民謡が呪文のように散りばめられていて、それが「子が親を捨てにゆく」話が実際にあったかのような迫力を生んでいます。
しかし、実際はこれらの一見「古い民謡」とは、実は作者の深沢七郎が自分で作った「新しい民謡」だったのです。しかし、特別の「ことわり」がないために、本当に昔からあった民謡だと思い込んでいる読者も、少なくありません。つまり、「子が親を捨てる」という風習が信州(長野県)に実際に存在した、今でもそう思っている読者、また評論家さえいるのです。
これは「罪」なケースです。いうなれば、アン・フェアーな“やり口”です。
しかし、中村さんの場合は、全く違っています。ハッキリと、自作の歌であることをことわった上、他の方(上城誠氏)の「査閲」つまり“見直し”を受けたことまで明記しておられます。まさにフェアーそのものです。驚嘆しました。
これなら、あの折口信夫以上に、「古代風の歌」で満たされた「古代歌謡」つまり新万葉集をお出しになることも、ありうるのではないか、そういう」「畏れ」と期待すら、もたされました。
(つづく)