ゴマメの呟き・アンモナイトの徒然草 -6ページ目

ゴマメの呟き・アンモナイトの徒然草

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一粒の米にも その7
このお話は、フィクションであって実際の事件、実在の人物とは無関係です

その21
戻ってきた観佐衛門は、なおも、お金を貸してくれる人を求めて、あちらこちらを駆けずり回りました。
しかし、このような、水害で荒れ果てた農地の所有者に対して、お金を融通してくれるような奇特な人は現れませんでした。
無論、お金を借りる際、廻船問屋に委任してある莫大な運用金の話しもしました。しかしそんな不確実で、しかも危ない話なんかに、耳を傾けてくれる者は、何処にも現れませんでした。
そこで、せめて仮提(仮の堤防)だけでも、梅雨が来る前に完成させようと決心した観佐衛門は、各部落の主だったものを集め、計画を話し、一家に最低一人はこの作業に参加するよう求めました。
しかし、村落の人々中には(ほとんどが、8代目観佐衛門の小作人でしたが)今回の水害によってあまりにも大きな被害を受けた為、このままこの部落に留まった方が良いか、それともこの部落に、見切りを付け、他へ移ろうかと、迷っている者が少なからずいました。
地主と小作の関係は、田畑の貸し借りがあってこそなり立つ関係です。
小作達は、耕地を借りていたい為に、地主の言う事を聞き、頭を下げているに過ぎません。
農地を借りる必要がなくなれば、下手(したで)に出る必要を感じません。
今回のように、もう、農地を借りるのは止めにして、他所に移っていこうと考えている者たちが沢山いるようになりますと、地主の威光は及び難くなります。
以前なら(それは観佐衛門家が隆盛な時ですが)、嫌も応もなく、二つ返事で受け入れていた観佐衛門の要請でしたが、今回はすんなり聞き入れてはくれませんでした。
集まった部落のものたちは、部落の人々の生活が今は大変である事を理由に、賃金無しで、川の水の締め切りと、仮提建設作業の様な労役に駆り出される事に難色を示しました。
彼等は代表者を立て、「今はこんな状態で、私たちは、大水で被害を受けた家の中の整理だけに、手いっぱいでございます。
しかも今度の水害で、家の中の物の殆どが、駄目になってしまっています。
その為、今日では、その日、その日を凌いでいくのだけで精一杯でございます。
今度の工事が、村人たちの為の緊急を要する工事である事も、私達村人の為の工事である事も、よく分かっております。
しかし、今申しまし述べ、ましたように、私どもの家の状態が、そのようでございますから、いくら地主様のお頼みでも、日当無しの仕事に出るわけにはまいりません。
そもそも、今回、被害に在った土地の殆どが、地主様のものでございましょう。
そうなりますと、地主様が、身銭を切って、小作である私達を、お助け下さったとしても、罰が当たらないのではないでしょうか」と言って、すんなり応じてはくれませんでした。
そこでやむなく、400文(今の8000円ほど)の日当で、近在の部落からも人足を集め、工事を進める事に、せざるをえませんでした。

その22
仮提の完成した夜、あの大川の氾濫の日以来、金策に、藩への陳情に、工事の監督にと、ほとんど不眠不休で、先頭に立って働いていた観佐衛門が、突然亡くなってしまいました。
お風呂からあがって、久しぶりの休息を楽しんでいた時、突然、激しい胸痛に襲われ、そのままあの世へと、旅立ってしまいました。
その夜、機嫌良くお酒を飲んでいた観佐衛門が、
「まだこの辺りの部落には、予備として、苗床に放ってある晩生稲の(おくて稲)苗があるはずだ。
それを集めてきて、駄目になった苗の後に捕植すれば、今年もなんとかなるだろう。
明日は、小作人を2,3人つれて、出来るだけ沢山、予備の苗を買い集めてこようとおもう。
祐貞、お前もついてきておくれ。
小作たちにも、充分配ってやれるほど集められるといいのだけどなー」と語っていたのが最後の言葉でした。
しかし観佐衛門は、洪水の後始末にとんで歩くようになった頃から、自分の運命をうすうす感じていたようでした。
奥様が無くなった後、家の財布の一切をまかし、執事のように、家の中のきりもりをさせていたお米には、
「私に万一の事があった時は、祐貞の事、くれぐれも頼んだぞ。
あいつは人が良過ぎる上に、世間の事を、未だ何にも知らないからなー。
もし私に何かがおこり、あいつだけに、任せなければならないような事になったら、今のままのあいつでは、この家は持つまい。
腹の内を容易に見せようとしない、使用人や、小作達を使いこなしていくのは容易なことじゃーないし、
家をやっていくためには、頭を下げて歩かなければならない事も出てくるであろうが、今のあいつじゃ、そんなことて、出来っこないだろう。
更に、私がいなくなり、あいつ一人になったとすると、上手い事言いながら、近寄ってくる奴らに、いいようにされてしまうのではないだろうか。
何しろあいつは、人が良いからな。
その22
父観佐衛門の突然の死に、祐貞は頭を抱え込んでしまいました。
8代目勘左衛門が作っていった仮提は、その年の梅雨はなんとか乗り切る事が出来ましたが、あまりに急ごしらえだった上、そういった工事の経験のいない、者達ばかりによる急ごしらえの仕事だった為に、その年の8月の終わりに訪れた台風に、耐える事が出来ませんでそた。(註:当時でもこういった工事には、今でいう土木技師みたいな、こういった工事に精通している人がいて、その指導のもと、行われるのが普通でした)
濁水は、普通の堤防よりやや低く、未だ仮ごしらえだった新しい堤防を難なく乗り越え、削り落とし、祐貞達の村落を再び水浸しにしてしまいました。
切れた堤防から流れ込んできた濁水は、前回の水害後も、この村落に残って頑張っていた人々の家も、そして田も、畑も再び呑み込んで、大量の塵、砂礫を含んだ、泥水の下に沈めてしまいました。
村落の土手はあちらこちらで寸断され、前回の氾濫で抉り取られた決壊部は、さらに大きくなり、土手は、広範囲に亘って、形すら無くなってしまいました。
しかし祐貞の手元にはもう、切れた土手を修理するお金どころか、今度の台風によって家が水に浸かったり、流れてしまったりして困っている人達を当座に救済するお金すら、殆ど残っていませんでした。
殆ど用をなさなくなってしまった土手を見た、村の人々は、ただ茫然とするばかりでした。
殆どの住人が、今後どうしたらいいのか、見当もつかなくなっていました。
そうかといって、こういうときに頼りになった地主の観佐衛門さんは、亡くなってしまって、もういません。
村人たちは、唯、思い悩むばかりでした。

その23
急逝した父親を、内輪だけでの仮の埋葬で済ませ、
父親が亡くなった翌日から、苗を、買いに走りまわり、やっとの思いで集めてきて作った稲も、開花期を前にして訪れたこの台風によって、穂をだしたまま倒れ、水に浸かって(つかる)しまいました。
(註1:葬式に時間をとられていると、作物を作付する時期を逃してしまう恐れがありましたから仮葬ですませました)
(註2:本葬は、取り入れが終わった後、すなわち秋まで待って行う予定でしたが、実際には、いろいろあり、それも後回しになってしまって、本葬が実際に行われたのは、十数年後となってしまいました)

前回の水害による用水路の損傷から、今年の稲作は無理だというので、代わりに慌てて作付した粟や高黍(きび)等といった、お米に替る作物も、収穫を前にしての、この台風の襲来によって、半分以上がなぎ倒され、その上、続いて起こった川の氾濫によって、実って間もない穂先が、水に浸かってしまいました。
自分が生まれて初めて作った稲も(水害で枯れたり弱ったりしてしまった苗を取り除いて、新しい苗に植え替えたのですが)、粟や高黍も、全てが水に浸かってしまっているのを見た祐貞は、全身の力が抜けてしまいました。
父親が、殆ど全財産と言っていいほどの、お金をつぎ込んでまでして作った仮提は、呆気なく流され、跡形もなくなってしまいました。
前回の水害後、慌てて補充して植えた稲も、種をまいて作った粟、高キビも、収穫の時を目の前にして、泥水の下になってしまいました。
蛭に血を吸われながら行った田植え、真夏のカンカン照りの中、腰の痛みを堪え、汗まみれになりながら行った何度もの草取り、朝晩見回ってきた水の管理などといった3カ月余の懸命の努力が、たった一度の台風によって報われる事もなく、流されてしまいました。
前回の洪水後、荒れ果てていた土地を、片付け、耕し直してまでして、作付した粟や高黍も、ほかの野菜も、これまでの努力の全てが、水に流されてしまいました。
「この3カ月余、一体、自分は何をしていたのだろう。これまでの努力や苦労は何だったんだろう」。
考えると、祐貞は何もかにもが、虚しく、何をする気にもなれなくなってしまいました。彼にはもう、動く気力すら残っていませんでした。
ただただ、ぼんやりと、村を覆っている泥水を、眺めておるだけでした
続く
このお話はフィクションです

その19
観佐衛門も、小作人、特に水害に遭って困っている小作人たちの惨状を、手を拱いて(こまねく)見ていたわけでありません。
水没した家々から救出されてきた家族だとか、家が流されて無くなってしまった家族は、一時的に自分の家に引き取って、納屋だとか、離れといった、屋敷内に、一時的に住まわせました。
お握りを配り歩かせもしました。

水が軒下まで来て、屋根裏で避難生活している人々には、水が引くまでの間、船で、さらに自分の家の倉を開け、水害に遭って、その日の暮らしにも困っている者には、米、粟(あわ)、稗(ひえ)などといった食品を、当座用に配りもしました。

しかしあまりの広範囲で、多人数の被害です。
観佐衛門個人だけの力では限界があります。
藩からの援助もなしに、皆が満足するほど十分な事は出来っこありません。
だから、どれだけ観佐衛門が、一生懸命やっても、村人達を、これは殆ど観佐衛門の小作人でしたが、彼等を満足させる事は出来ませんでした。

彼らの口をついででるものは、不平不満と、陰口だけでした
観佐衛門にとって最も大切な事は、この村の再生を図る事でした。
観佐衛門はこのために、自分の家の事も、自分の身体の事も、ひとまず脇に置いて奔走しました。

喫緊の課題(きんきつのかだい=差し迫ってやらねばならない大切な課題)は、決壊した堤防や、寸断された用水路の再建でした。
そして次は、砂礫と塵に埋まった農地の再生でした。
観佐衛門は知人、親戚を訪ね、惨状を訴え、復旧への援助の手の差し伸べを、頼み歩きました。
無論、藩の方にも、お救い米の放出と、村の再建への援助をお願いしました。

しかし、川の真ん中の浮洲と変わったしまったそんな場所の援助を、申し出てくれる所はありませんでした。

藩の方も、再三再四のお願にも関わらず、藩財政がひっ迫している事を理由に、良い返事はくれませんでした。

祐佐衛門のこんな苦労を知らない小作人達は、その日の食べ物にも困るような状態も、一向に進まない堤防の復旧も、漠然とした明日への不安も、全て地主である観佐衛門の至らないせいだと極め付け、その怒りの矛先を彼に向けました。
かれらは寄ると触ると、地主であり、名主でもある、観佐衛門の悪口ばかりいうようになっていきました。

その20
梅雨時を控えている事もあり、観佐衛門は焦りました。

堤防の決壊した場所から流れ込む、川の水を堰き止め、そこに仮の堤防だけでも作らないと、梅雨時の雨による増水で、この村は、再び水浸しになってしまう恐れがあります。
どこからの援助も当てにならない以上やむなく観佐衛門は、自力で、(堤防の)決壊部分を締め切り、仮堤防だけでも作る事にしました。
そこで、それまで、代々に亘って資金の運用を任せていた、桑名にある廻船問屋を訪ね、運用金の一部を繰り上げて返済してくれるように頼みました。

所が悪い事は重なります。
その廻船問屋では、「今年の春、時化で、持ち船のうち二艘を、失くしてしまいました。そこで、なんとかこの損害を挽回したいと思ったものですから観佐衛門殿始め、お金の運用を任されていた、いろいろの人のお金までも、一時的に流用して、新しい船を作ってしまいました。
更に、その船団に積み込む荷物を買い入れる為だとか、船乗りを雇い入れる為などに、あちらこちらから、借りられるだけ、借りてしまいました」

従って、今すぐには、お望みの金額を準備するわけにはまいりません。
もしどうしても、すぐにその金額のお金が必要とおっしゃるのでしたら、私どもとしましては、今持っている物、全てを売り払って清算するより仕方がなくなってしまいます。

しかしそうなりますと、あちらこちらの借金も同時に清算と言う事になりますので、お宅にお戻しできるお金は、多分、ほんの僅かと言う結果になってしまうと思います。
私めも、このまま終わる心算はございません。
幸い、新しく作った船も、順調に江戸との間を行き来するようなっております。
前から持っていた船も無事動いております。
だから、必ず盛り返せると思いますので、今しばらくの御猶予、なにとぞお願いします。誠に厚かましいお願いで恐縮でございますが、後3年ほど、お待ちいただきたいのでございますが。
そうしていただきましたらその時は、お預かりしているお金は、お礼も兼ねて、倍にしてお返しさせていただくつもりでございます。
そういった事情でございますから、今日の所はこれだけでご勘弁願えないでしょうか、
これが、今の私どもに、掻き集めることのできる限度でございます」と言って500両ほどのお金を差し出されました

「今ここで、無理して資金の回収を図っても、この人の言うとり、お金は、殆ど、戻ってこないだろう。
にもかかわらず、ここで無理をして資金の回収を強行すれば、相手を倒産に追い込み、元も子も無くしてしまうだけでなく、連鎖倒産をおこさせ、失業と言う、不幸な人達を増やす事になってしまうだけだろう」

「長年にわたる、こことの取引で、この人の、人柄も分かっており、嘘を言ったり、騙したりする人ではない事はわかっている。
だったらここは、相手の言葉を信じ、そのまま帰るより仕方があるまい」と、500両のお金を受け取っただけで、すごすごと帰ってまいりました。

続く


このお話は、フィクションであって実際の事件、実在の人物や、実際に在った出来事とはとは関係ありません

その18
その年は稲の実りも特に良く、使用人や、小作人達の懐具合も暖かで、何処の家も、ご馳走や、門飾りを奮発し、新しい衣装を新調したり、家を修繕したりして、大人も子供も、皆浮かれ、村全体が華やかな、お正月気分に包まれておりました。
観佐衛門は「あー、有難いことに、今年も何事もなく、全員、無事にお正月を迎えることができた。」
『あれからもう8年。これだけ何もなかったと言う事は、あのお坊様のお告げは、間違いだったということじゃないだろうか。
こういうのを「弘法も筆の誤り」と言うのだろうな。
それとも、私の願いを、仏様がお聞き届け下さって、お助け下さった御蔭なのだろうか」と思いながら、何年ぶりかの心安らかなお正月を過ごしました。
所が、節分も過ぎ、春がもう、すぐ近くまでやってきていると言う3月の初めになりますと、妻と、母親の二人を、悪性のはやり風邪によって、続けて失くしてしまいました。
不幸はそれだけで終わりませんでした。
その年の5月下旬の事でした。
数日にわたって、これまでこの地方では、あまり経験した事のなかったような大雨が降り続きました。
そして、運が悪い事に、それが、毎年この頃になると起こってくる、山の雪解け水と重なって、村落の両脇を流れていた二つの川の大氾濫を起こしてしまいました。
それまで、水から村落を守ってくれていた土手は、あちらこちらが切断され、大川から流れ込んできた濁水は、田植えが終わったばかりの田や、発芽して間もない畑の作物の殆どを、それは全て観佐衛門の小作地でしたが、それらを、泥水の中へと、沈めてしまいました。
早くから警戒していたせいもあって、人的な被害は殆どありませんでした。しかし物的な被害は大きく、観佐衛門の家のような、やや高い所にあった、数軒の家を除いた、村落の家々の殆どが、水に浸って(つかって)しまいました。
決壊した土手の前にあった家々にいたっては、土地ごと家が削りとられ、押し流され、何もなくなってしまいました。
濁水によって流されなかった家々も、多くは、田んぼの中の低い土地に建っていましたから、その多くは、床上数間以上〈一間は6尺、1,8メートル〉酷い家にいたっては、軒下近くまで、濁水に浸かってしまい、そのため、家財は言うまでもなく、衣類も、寝具も食料も、その殆どを駄目にしてしまいました。
排水設備が、まだ整っていなかった時代です。一旦、輪中内に入った水は簡単にはひいてはくれません。
今回の場合、その上、大川そのものの水嵩がなかなか減っていかずに、決壊後もなお数日間に亘って、決壊した場所から大川の水が、流れ込みつづけていましたから、余計に水が引いて行くまでには、日数が掛かりました。
床下程度の浸水に過ぎなかった家でさえも、略、以前の状態近く迄、水が引いていくには、一週間、殆どの家が、水が引く迄には、10日間以上もの日数が掛かってしまいました。
水害によって家の中に侵入してくる水は、水と言っても、普通の水ではありません。屎尿と泥とが混じった汚濁水です。
(註:当時は、どこの家も、汲み取り式の便所でした。その上、田畑のあちこちに、肥え溜と言う、汲み取ってきた屎尿を溜めておく、カメが埋められていました。よって洪水の場合は、それらの屎尿がぷかぷかと浮き上がって、泥水と一緒に家の中にまで入ってきました)
その為、ほんの短時間の浸水であっても、その後の家の清掃と洗濯は大変です。
まして今回の場合のように、10日近くも水に浸っていますと、壁は剥落し、軒は傾き、床板、茣蓙(ござ)、布団、衣類、家具、食品等の、殆どが、汚れ、ふやけ、腐り、使えなくなってしまっていました。
田畑の被害も甚大でした。
田植えが終わったばかりの苗や、苗床に残っていた苗も、そして芽を出して間もない畑の野菜類も、泥水に浸かっている間に、根や葉が腐ってしまったものが多く、半分以上が駄目になってしまいました。
残っている苗も、青葉は一葉か二葉しかなく、根もかなりやられてしまっていて、今年の収穫に多くは望めそうもなくなっていました。
水害の被害はそれだけでありませんでした。堤防の切れた近くでは、流れ込んだ濁水が、田や畑を削り取り川の流れに変え、その周辺には、大量の砂礫や石の塊、塵、この塵には、山の倒木、切り株、流された家の残骸や家具、家財などが入っていましたが、そういったものを運んで来て撒き散らし、作付が終わったばかりの田や畑上にに、覆いかぶさり、広範囲にわたって、そういった物の積み上げられた、川原へと変えてしまっていました。
田んぼの間を走っていた用水路も、ズタズタに寸断されました。
この為、かなりの水田が、湿地となり、またかなりの水田が、逆に水不足で、稲作には不向きな土地と変わってしまっていました。
水が引いていった後に見た村の惨状に、小作人達は動揺しました。
土手はあちらこちらが切れ、堤防の役目をなさなくなってしまっておりました。
このままでは、まるで川の真ん中に出来た、川洲に家を建て、土地を耕し、作物を作っているような状態です。
少し雨がふっただけでも、それによって増水した大川の水によって、村全体が、水浸しになってしまう恐れがありました。
その上、借りていた土地の殆どが、作物が作れそうもない塵と砂礫の撒き散らされた、川原に変わってしまった人もいれば、屋敷も耕地も、川の一部になってしまっている人もいました。
大きな被害を受けたこれらの人達の中には、今後の年貢だとか、土手だとか、用水路の再建のために駆り出される事になるであろう、賦役(ふえき:労動の形で支払わされる地代ないしは貢物)などの事などを勘案したとき、このままこの村に留まっていたとして、果たしてここで、生きていけるのだろうかと、考え込んでしまいました。
もともと小作人達は、それほどゆたかではありません。それ迄だって、生きていくのが一杯、一杯の生活で、貯えなんか殆ど持ってない状態でした。
そこへ今度の水害です。
家だとか家財といった沢山の物を失った上、自分達の生活の糧を生みだしてくれる、借りていた土地までが、殆ど駄目になってしまいました。
その日の生活にも事欠くようになってしまった人達にとっては、年貢だとか、賦役といった義務は大変な重荷です。しかし藩におさめる年貢(藩に納める税金)などは、部落全員の共同責任です。自分の所ガ出さねば、他の人に迷惑をかけます。賦役だってそうです。輪中と言う水害を防ぐための共同防水組織の中で生きている以上、例え生活が苦しくても、隣近所の人との付き合いもあり、これらの義務は果たさざるをえません。
とはいえ、小作人たちにとっては、ここは故郷です。流されたり、水に浸かったりして、無くなったとしても、住み慣れた家の跡があります。
親戚もいれば、友人もおります。
更にそこにはご先祖様から受け継いできた墓もあれば、産土(うぶすな)の社(やしろ)もあります。
貧しいながら、物を分かち合い、傷をなめ合うようにして生きてきた、親しい隣人もいます。
従って、非常に離れ難いものがあります。
にもかかわらず、それら全てを切り捨て、見も知らぬ土地へ、しかもそこへ行ったからといって、生活が保障されるわけでもないのに、移住を考えざるを得ないというのは、彼等にとっては、よくよくの事でした。