備忘録として気になる点だけを記録したい。
と、いってもいつもながら長くなる。


つまっています。
九州が。

しかし、見えそうで見えない。
とても難しく複雑です。絶望

でも、一生けん命に藤原秀郷(娘さんと思う)
が伝えてくるので、考察してみます。

 

 

藤原平家の誕生

 

また系譜をたどるのが難しいよ~~。無気力

前回の続きより、

藤原秀郷のお城、唐沢山城へいったら、
平家の揚羽蝶の家紋がありました。

 



「平家の藤原」がいたことを知る。

藤原秀郷から青木氏という人が出ております。

「藤原秀郷の子孫」とされ、
青木氏が揚羽蝶の家紋を用いたという。
複数おりますが、この方が平家藤原となる。

またこの青木氏は、永嶋姓を名乗ったとも。

この青木氏らの祖が「阿多倍」一族という九州の人たちとわかった!

「遠の朝廷」と言われた九州を治めた大蔵氏の末裔と。

大蔵氏は、秦氏の役職だったのでは?
大蔵省の発祥とか。

大蔵氏→渡来氏族の東漢氏・秦氏のうち、
国庫である「大蔵」の管理・出納を務めた者が
その職名を氏の名として称したという。


後でまた登場します。

また、この阿多倍氏は、「阿」であることから
「阿知使主」であることが判明。→百済

ということなので、平家の家紋を用いたのは、

<秀郷流青木氏>という人から始まったらしい。

秀郷の主流(直系)からだんだん離れていって、
直系5のうち4系が揚羽蝶の家紋を用いたと。

支流の1族は別ですが、大体、丸に揚羽蝶や揚羽蝶。

「ほぼ同時期に平家と同じ家紋を用いた」ことから、
平家と藤原家との政略結婚があったわけです。

 

 

藤原秀郷は最初は平将門と建国したかった?

 

平将門を討伐した藤原秀郷と聞けば、
すご~く対立していたと思いますが、
そうでもないらしい。

紫姫さんからのコメントより

『源平盛衰記』の巻第二十二
俵藤太、将門中違ふ事

「昔、将門が東8か国を討ち平らげて凶賊を集め、
王城へ攻め入ろうとしていた。
平将軍貞盛は勅宣をこうむって下向した。

下野国の住人・俵藤太秀郷は名高きつわもので
勢力を有する者であったが、

将門と心を合わせて朝廷を傾け
日本国をともに領有しよう

思って出かけていったという。」

という創作である、と言いたいかもしれないが、

そうなっていたら、歴史は変わっていたでしょう。

 

藤原秀郷は、最初は平将門と共に関わりを
もつ関係にあったことが見えるところが面白い。

しかし、平将門の素性?があまり良くないことを疑問に思い、
結局「平貞盛」の方について将門討伐になったという話。

 

※平貞盛

これは、「平氏同士の派閥」な感じがするのですが・・・

藤原家にとっては、特に血縁や系統は重んじていない気がする。

「どちらにつけば勝つか」の考え方は秦氏的で、
壇ノ浦の戦いと同じ熊野水軍とも似ている。

平将門では勝てないと思った秀郷が貞盛の方に寝返った、
ようなことがあったのかもしれない。

 

 

藤原秀郷が平氏家紋を継承した理由

 

いつの時代も平和を繋ぐのは、娘たち。

『源平盛衰記』にあるように、藤原秀郷は、
平貞盛と戦友となり将門を倒した。


そこで、藤原家と平氏が政略結婚をする。

戦友となった平貞盛の娘を、
藤原秀郷の子(三番目)に嫁がせたという。


そのため、平氏のお嫁さんの方の家紋(揚羽蝶)を
継承したということです。

なぜ、藤原家の下がり藤家紋を用いなかったのか?

 



おそらく貴族から「武士」になったわけだから、
秀郷にとっては、貴族の藤の家紋を継がせるわけにはいかなかくなったと。
(3番目ということもあり?)

なので、母方の方の家紋を使用させたのではないか?

といった専門家の見解も含めて、
この意味は、おそらく「藤原貴族の衰退を見据えて」と思うことです。

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この頃、900年代の終わりは、
「平安時代の終わり」

それは「藤原貴族の衰退」を意味します。

 



後の鎌倉時代は、「関東武士の時代」へ

貴族が生きのびていくためには、武士にならねばならない。

 

※福島県相馬野馬追

関東武士(平氏)との政略結婚により、
生き伸びる方法を模索していた藤原秀郷だったことがわかります。

源氏につくより平氏についたのは、
どこかで平将門の建国が気になっていたのではないかな?

 

※福島県相馬中村神社にある国王社(平将門を祀る)

源氏と対立をすることも考えて、平氏と関係を結ぶ
意図があったならば、はるか昔の九州王朝にあると考えますが、
実態がまだ見えない。

藤原秀郷は、平将門の乱で「京平氏(伊勢平家)」
平貞盛と共に、平定しました。
(930年~940年)


平貞盛の子、平惟衡(これひら)という人の名が
「衡」とついている。
奥州藤原氏の子もすべて「衡」です。

この平惟衡が、伊勢平氏の祖なんだそうです。

「伊勢の伊賀国」を朝廷より「阿多倍に」(=大蔵氏)
この地を特別に与えられたという。

なので、秀郷の末裔が伊勢の伊賀国を占拠でき、
その後の4代目が平清盛の時代に。
後、織田家が制圧。

藤原秀郷は、伊勢平家と婚姻を結び、
一族を増やしていったという事なのでしょう。



また、下野国(現栃木)を武蔵の領国にするために、
下野・武蔵国の領国を治めた藤原秀郷があったというので、

藤原秀郷も平将門と同じように
「日本建国の王になりたかった」のでは?
そうすると、将門が邪魔になるね・・・

今じゃ、龍とたわむる可愛い少年になってますがな。

 

※唐沢山城跡にて

それで、
3番目の子に「青木姓」を与えて「武士化」したという。

 

 

九州の王?阿多倍とは

 

 

ちょっと長くなりすみませんが、
九州王朝を繋ぐには、この方の名を記さねば・・・

最後に、

「阿多倍」という名前を知ったのですが、
この方をたどると、九州の豪族に繋がります。

これが「大和朝廷に転換した」という歴史になっていく・・・

書きかえられたようなこと。

どういうこと?
ややこしく難しいので、よくわかりません・・・


日本書記などには、

阿多倍は、「都加使主(つかのおみ)」を名乗り、大臣となる。
※倭漢直(東漢氏)祖の阿知使主(阿智王)の子とされる渡来人。

高貴王と言われ、これが阿多倍であると。
阿多倍は、斉明天皇と結婚し3人の子をもうける。
そのうちの一人が「大蔵姓」(青木氏の祖)に名乗ったとあるのです。


しかし、大蔵氏系図では、
阿多倍は、敏達天皇の子
茅渟王(ちぬおう)の「娘」と結婚したとあり、

茅渟王の名が登場しているのです。

もう混乱。オエー

またここに戻るねぇ・・・。(相当だね)
福島、葛城王、して、難波の。

 

wikiの系譜で、はしょる。

 

えーと、関係するとこ赤ラインのとこ。

 

 

まあ、阿多倍は、斉明天皇と結婚しているのですが、

女帝ですからね。

九州の豪族とされる大蔵氏は、阿多倍一族であると言うわけで。


筑前(筑紫)を治めたとあり、その地は「大宰府」。

ここの筑紫には、飛鳥時代、朝倉橘広庭宮という
斉明天皇(皇極天皇)の宮だったという。

『日本書紀』によれば、斉明天皇6年(660年)7月に
百済が唐と新羅によって滅ぼされると~~

 

といった話。

難波から九州へ、百済復興のために救済にあたったらしい。

その時に、朝倉橘広庭宮に移ったと。

しかし、同じ「朝倉」の斉明天皇を祀る神社が高知県にあり、
忌部氏の所らしいのです。

 



※朝倉地域の豪族を物語る古墳。
朝倉神社奉斎氏族の都佐国造に対比される。

そこには、赤鬼山(あかぎやま)があり、
群馬の赤城山と同じ音。

その赤城山にいたムカデを退治した北関東の戦いに、
藤原秀郷が退治してますね。

 



これまた、藤原秀郷の名を使って源氏らは、
平将門を調伏させていたかもしれない。


土佐にもある桔梗家紋。

 



これは源氏の方なんですね。

妄想ですが、福島で伝わる伝説は、
源氏側の人(スパイ)を「桔梗」という名にして、
藤原秀郷に近づき、平将門を討伐した、
という物語にしているのだと思います。

→陰陽師の五芒星と重ねている。

 

 

でも、秩父だと違う伝説になり、

ギリシャやローマなど異国の星信仰になっています。

※かんむり座

 

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さて、大蔵氏という九州の人は、
その子孫とされる青木氏とも同一らしい。

「藤原系青木一族」

 

藤原秀郷を祖とする人のうち、

九州の阿多倍(大蔵氏)がいたと言う事ですが、

大蔵氏の系図と違う?のは

朝廷は、九州王朝を忘れさせるために、
斉明天皇にすり替えたという話があった。

・・・むむー?
むずい。

 



ここからは、眠れない時に読んでみて下さい。

わけわかめで脳がシュルシュル〜なって、

眠れます。。。


「九州の王を消したい大和」があったという話。
これがよくわからん。

斉明天皇は、別名「皇極天皇(こうぎょくてんのう)」と言う。

皇極天皇から、再び「斉明天皇」と名乗るのは、
引退したけど再び天皇になる「重祚して」斉明天皇になったという意味。

同じ人が2度即位していることに。

「飛鳥」の地で即位しており、
645年の乙巳の変で蘇我馬子と物部守屋や中臣鎌足の時代
にあった天皇ですから、匂います。

 

飛鳥より葛城山



たぶん、大和王朝は、百済が乙巳の変を操っています。
(東漢人が崇俊天皇を暗殺した説)
その東漢人は、阿知使主(阿智王)の子=阿多倍であると言うことですね。

 



大和王権は、百済の渡来系による政権という日本書紀の言い分と。

九州から大和~武蔵へと北上していくために、武蔵の建国が必要。
なので、さきたま古墳群ができる。

武蔵と婚姻を結んだ九州はあり得ると思います。

に対し、大蔵氏がいう方のは、九州王朝をそのまま持続させ
大和王権を成立したという話になっているようなので、

大蔵氏の方に「茅渟王」の名が挙がっていること・・・
九州の王として必要だった茅渟王がキーワード。

「皇極天皇」(斉明天皇)の父は、

父:茅渟王(ちぬおう)→謎の人物
母:吉備姫王

敏達天皇が、九州王朝と言っている?

 

しかし、茅渟王が九州の王朝に関わる王だったとしたら、

謎の人物にされていることが、日本書紀は隠したいから?と。

 

謎というのは「誰かと同一」・・・

説ですと、「百済王」と。

 

百済王→義慈王の子→扶余義慈ともいう。

扶余・・・扶余系騎馬民族の末裔(物部氏説あり)


百済と九州王朝。


阿多、といえばアタ族がいますが、関係は不明です。


アタ族では、木花咲耶姫との関連も。

富士山ですね。


確かに、平泉は白山信仰。


しかし、九州王朝とは出てこない。

百済がルーツとしてる。


 

※大阪石切

 

それが百済かどうか不明ですが、百済であることは、

仁徳天皇と難波の関係から、藤の家紋は繋がりますよね。

その百済王は、大阪枚方にある=七夕の聖地。

 

妄想ですが、家紋は蝶ではなく養蚕、蚕の虫ってこともないかい?

 

 

 

 

まとめてみた(あくまでも考察です)

青いラインは、海道

赤いラインは、山道

 


皇極天皇のバックに蘇我馬子がいたことを考えると、

九州と磐井の乱、が関係する時代です。

仁徳天皇とかね。


匂いますが、まだ見えないので、このへんでやめておく。

ということなので、平氏に九州王朝が関わることは、
かねてから思っていました。

秩父は九州と深い関係があることは、知っていました。

でも、今回はもっと深いところに至る。

九州王朝と関わりをもっていた伊勢平氏の
ルーツの中に守るべき女系の系譜が隠れていたように見える。

藤原秀郷が伊勢平氏の家紋を継承させた背景に、
母系を重んじることを示しているのでは?

九州の王=古くの卑弥呼の時代から通じていることが
あったのかもしれないが、神功皇后と似ている。

それが、飛鳥で即位した斉明天皇だった。

武将こそ、先祖のルーツをたどって守り貫く戦士であったから、
女系を重んじることは、当然のことかもしれません。

 

いろいろ繋がってはくるのですが、

秀ちゃん探訪は、おしまい。


 

福島県の鉄がとれた半田沼に秀郷の伝説があります。
ここは、義経も訪れた半田沼と伝わります。

桔梗姫と秀郷の伝説が、昔話とはいえ、
すごい話と思います・・・

~藤原秀郷はムカデ退治の俵藤太のことで、
秀郷は琵琶湖にすむ美女と結ばれる。
美女は桔梗姫を生んだ~

 

↓秀郷と桔梗姫、水蜘蛛などの話

 

次は、最後に訪れた大好きな所♪
なんと、そこは、秩父と繋がっていた!?

 

最後に、神秘の弁天様へ