行ったところの歴史をまとめます~。
群馬県太田市~埼玉県熊谷市~秩父入り。

旅はご縁なので、その土地の歴史を垣間見られることは、
歴オタとしては楽しい。

ツッコミしたいところを探す。笑

またその偶然ばったりなご縁が素晴らしい。

うどんを食べたお店のすぐ近くに「金山城跡」があり、
資料館もある所なので、そこで涼んできました。

 

※太田市と新田金山城跡(wikipedia)

標高235.8メートルの独立峰。

 

※資料館


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戦国時代の歴史になるのですが、

あんまり詳しくわかりませんので、概要を。

この土地を開墾し所有した有名な武将は「新田氏」です。

大中黒・新田一つ引(家紋)

 



清和源氏流
河内源氏系
義国流

・・系とか流とか。

つまり、源氏。

開祖は河内源氏の棟梁の源義家(八幡太郎)の三男(諸説あり)

なるほど・・・

地名は「太田宿」から太田と地名を名乗ったと。
(日光例幣使街道)

 



→徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使
(日光例幣使)が通った道。


太田市は、1108年浅間山の大噴火により荒廃した
新田郡内の「空閑の地」を開発して京都にいた貴族
花山院藤原忠雅家に寄進し、新田荘を開きました。

藤原忠雅から下司職(荘園管理者)に任命されて、
新田氏を名乗ったという
(太田市の歴史サイトより)

当時、都にいる貴族や皇族たちは、
関東や東北など遠い地を所有しており(実質上名前だけ)
土地を開墾したい場合は、所有している貴族に寄付をして
開拓をするという荘園スタイル。

※藤原忠雅=藤原北家
この藤原忠雅は、平家と繋がる。(婚姻を結ぶ)
関東一帯の山間部に平家が多く栃木県にも平家落里あります。

 

 

新田金山城(にったかなやまじょう)



全山アカマツに覆われた金山にあった日本の城(山城)。
別名「金山城」、「太田金山城」

 

 

 



ちょっと城を散策したかったのですが、
森は涼しいのですが湿度が高くて途中で断念。

ここまで行ってみたかったな~。

 


※新田金山城(月ノ池と大手虎口)(wikipedia)

「日ノ池」「月ノ池」というのがあるんだそうです。

資料館へいくと「横瀬氏」と「由良氏」の名。

 

 



実家の郷は「横瀬」ですが、関係ないです。
でも、秩父に横瀬氏がいたので気になります。

しかも、横瀬の名から「由良」に名を変えているというのですが、
由良という地名が淡路島にあることが気になる。

横瀬氏(横瀬泰繁)は、「武蔵七党小野姓猪俣党系」の武士という。



この方が、明応4年(1495)の明応の乱で、
実質上の金山城主という。

 


※横瀬泰繁肖像

横瀬氏や丹党一族は、東北にも行ってます。

ここから秋田県の方へ行っているのかな。
(安保氏系譜)

 

 

 

渋沢栄一の経歴が半端ない

 


やっぱり、埼玉県北部(深谷)にも近いので
どこへ行っても渋沢栄一色になってます。

 



資料館の2階に渋沢栄一の展示を小さくやってまして
経歴がふつーじゃない。真顔

「血洗島」という地名があり、
有名な獅子舞があるんですね。

 

 

養蚕の奨励もしていたから、群馬の富岡製糸場にも尽力をつくします。
(主任になる)

「血洗島の獅子舞」諏訪神からの獅子舞

 



10年くらい前になると思いますが、
埼玉の博物館へ行った時に、偶然みかけた血洗島の獅子舞です。

 



この獅子舞は、元亀2年(1571)の開始と伝わり、
渋沢栄一は獅子舞の大の愛好家で、
神社のお祭りにの際には毎年かかさずに村に帰り、

祭りに参加していたといわれます。

 


※埼玉県立歴史民俗博物館にて

深谷市の無形民俗文化財に指定されていますが、
とにかく、諏訪信仰がとても多いんですね。
丹党一族が崇拝してましたので。

 

こんなに創設してる。

 

 

秩父の石灰開発について、コンクリートの必要性を訴えてきた

東大の教授から渋沢栄一は影響を受け、武甲山の石灰開発にのりだす。

 

そのための電力が必要でたくさん秩父にダムを建設。

輸送用の秩父鉄道が開業。

 

その開発は、影森から始まったので、

秩父にいった時に影森だけ大雨になったのも、

龍神さんが浄化したかったのだと思う。


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歴史ドラマに興味がないのでいつも見ないですけど、
「青天の~」でもやったらしい、この話。↓

 



栄一は、横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画を立てていたというが、
説得されて実行はされなかった。


養子だった「渋沢平九郎」が会津藩と同じように新政府軍と対立。

 

※渋沢平九郎


江戸城無血になった話から「飯能戦争」という歴史がある。
(もうひとつの会津とも言われる)

渋沢栄一は、尊皇攘夷派だったが。
→天皇を尊び外敵を斥けようとする思想

簡単に言いますと、幕末のころ、欧米の戦闘に対し
幕府がなんら対応できないという不満があがるのです。

そこで、地方の下級武士や貴族が
そんな幕府を倒そう、という意識の高まり。

今の日本の政治情勢とも似ていて、
なんら政府が対応できていない不満があがる。

戦争をしかけようとしている(植民地化)の欧米を
倒す思想から、日本国内の幕府の政権に不満が起こり、
幕府を倒す(倒幕派)思想や活動に変わっていくのです。
 

その国内の派閥、分断、内乱を以て植民地化
するやり方ですから、戊辰戦争は、やられたわけです。


仕掛けた側は何の痛みもありません。

自分の土地じゃないから。


しかし、アメリカの植民地にならずにすんだのは、
複雑な日本人の思想にあったと思うが。

その希望は持ちたい。

そのことを、渋沢栄一は、わかっていたのかを知りたい。

「現地に足を運べ」と言わんばかりだ。

 

 

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さて、
この後、うどん屋の名前にもなっている呑龍(どんりゅう)さんという
有名な僧侶がおりまして。

主人が呑龍さんのお寺へ行きたいというので行ってみたら、
間違えて新田義貞公が眠るお寺へ行ってしもた。

暑いのに・・・絶望

長くなってしまったので、次につづきます。