夏なので不思議な伝説をご紹介。

(過去記事です)

※「過去記事」について、改めて言うほどのことではないのですが、
過去記事というのは、
2019年以前のgooブログに書いていたものですが、
gooブログは退会したので読むことができなくなっています。

なので、こちらのアメブロに随時のせていくことにしていますので、
よろしくお願いします。

その中でも霊山は度々登っていた山なのですが、
アメブロにはまだ載せてませんでした。

写真と共に、伝説を想像してみてください。コアラ

 

※霊山(福島県伊達市)

 

 

 

マタギがみた宝

 

 

地元の老マタギが死に際に語ったという孫からの伝承。
(『丸森線の里』の本から)

霊山を狩り場にしていた人で、
ふとしたことから気が触れて晩年は炭焼きをしていた。

死の床についていた時、
ポッカリ正気に還って孫に不思議な物語を残して逝ったという。

「わしがイノシシを追って何日も深い山さ入って行ったら、
道に迷ってしまってな。

 



日がくれるし下は目がくらむような絶壁、はて困った。

 



今晩も野宿すっぺと思ったれば手頃な岩屋があってな、
中さ入って休んでいたところ、
奥の岩がギギーと動いて緋の袴をつけた官女様が出て御座たんだよ」

(※緋の袴:腰から下に着用する和服(袴)の一種。赤系統の色をした袴。
平安時代中期以降に、
主に宮廷において女性が下衣として着用した袴のこと)

 
※イメージはキルケー

「そなたたち里の者はここに近寄ってはなりませぬ」

霊山城が落ちた時、沢山の宝物と一緒に官女達が消えたそうだが、
するとわしは知らないで隠れ屋に来てしまったんだべが。

と聞くと、官女は厳しい顔になり、

「そなたは宝物のことを口走りました。
私の姿も見てしまわれた。
このまま帰すわけには参りませぬから私について来なさい」

そこでわしがついて行くと岩屋の中には立派な御殿になっていて、
そこに身分の高い方が白銀色のラデン飾りの太刀や唐から伝来の青磁の皿とか


花瓶や壷が漆塗りの管に納められた宝石や金銀の細工物が一杯飾ってあってな。

 



びっくりして見てたら、

「私は宝物の見張りをしている官女です。
ここに近づいた者は二度とここに近寄れない定めなのです」

そう言うと香のような物をつまんで壷に撒き、
ゆらゆらと紫の煙がのぼって来た処までは覚えていたのだが、
後は気を失ってどうなったか、サッパリ思いだされないとなったのだ。


気がついた時は、わしは里の林の中さ倒れていた。

これ以来、わしは頭が変になってしまってさ、
マタギに行っても野うさぎ一匹も捕えられなくなった。

 

 

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マタギらしい話です。

マタギの不思議体験は、数多くの言い伝えが残されています。

山形県面白山の雪女もそうです。

 

マタギは神聖な狩りの儀式なので、

女性と関わったりすると、獲物がとれなくなり、

マタギができなくなると、よく言われます。

 

山の中に長い間、過ごしていると、

幻覚などを起し易くなると聞いたこともあります。

 



老マタギの話では、かつて霊山が城として戦国武将たちの聖地で
あったことを伝えていると思います。

落城してから、600年以上が経つ今でも学術的調査もなく埋れているまま。

 



実際、霊山は南朝にいた北畠顕家が拠点としており、
数々の伝説が残されています。
宝の話もここに持ち込まれた物だったでしょう。

 

(国司跡)

東北の山の中で初めて登った山が霊山でした。
この時はツアーに参加したのですが、
すごく楽しくて、幸福な登山でした。

それから、度々登っています。

ただ、その時は、まったく歴史には興味がなかった。

しかし、良い山には、魅力的な伝説が必ずある。
 
霊山はいろいろありますので、
後でまた別の機会に述べますが、簡単に。

 

※義良親王(のりよししんのう)

「奥羽ハ日本ノ半分ナリ・・・ 」
1333年、北畠顕家は
6歳のころ、義良親王(後の村上上皇)を奉じて多賀城に入る。

 



奥羽の軍馬(南部・伊達藩の)で遠征し、
琵琶湖で御醍醐天皇と合流し、九州まで遠征した。

 



 秩父権現を畠山重忠の命で島津氏により、鹿児島県大塚神社に
勧請されたのは、北畠顕家が九州に遠征していたことに関係するかもしれない。

北畠顕家は足利尊氏を倒し(北朝)、
その戦いぶりは後世に語りつがれ

史上奥州軍が中央を制覇したのは

これが初めてであるという。

 




この時霊山は、多賀城が危ういので国府を霊山寺に移し立てこもった。

古くは、859年清和天皇の勅命で円仁が霊鷲山で修行し、
釈迦の故事にちなんで、
霊山と命名。奇岩、奇峰が多く、山岳仏教の霊場とした。

 

 

 

 

平泉の北の黄金仏教に対し、南の仏教霊場と言われるほどなので、
当時は華やかだったと思います。

 

 



 

 

 

 

 

 

 

(天狗の相撲場)

登山中、山伏のホラ貝が度々聞こえていた。

 

 

黄色の鮮やかな山伏の衣装が緑の森によく映えていた。
見下岩で休み中の山伏たち。

 


 

 

 

 

 



見下岩からみえる絶景

 

 


 
北畠顕家は霊山城で休んだと伝わる。

 


あっきー(北畠顕家)


南北朝時代といわれる頃で、

 

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇と足利尊氏の対立。
尊氏は京都の光明天皇を擁立させる。


それに対し、御醍醐天皇は吉野の南朝にたてこもり、
その望みを奥州軍にたくしていた。
足利尊氏が裏切った?という話もある。


 

 

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北畠顕家を祀る神社が、
ここ霊山神社と大阪の阿倍野神社。

「阿倍野」の地名が安部氏からの説が有力らしいが、
ここで亡くなったとの説もある。


昔、この辺りに安部氏が住んでいたそうだ。

だから、近くにある山津見神社の虎捕山は、
阿部貞任の伝説があるわけだ。

 

※虎捕山の山津見神社

 

初春の霊山から虎捕山方面

 

※こちらは綿津見神社

 

 

 

2018年に

『南北朝時代の武将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)

の生誕700年を記念した企画展

「北畠顕家と霊山」が7日、伊達市の保原歴史文化資料館で始まったのをみていた。

 



 霊山登山の帰りに霊山神社に寄ってみたのですが、とても静かな所でした。
北畠顕家一族を祀っているとの事。

争うために生まれてきたような運命を生きた人でしたが、
今は静寂な時間が流れていました。

 

霊山例大祭が春に行われるそうですが、

若い人たちが剣を天に掲げる舞が印象的です。


北畠顕家が多賀城から霊山神社へ入城する時に地元民が武運長久を願い、
剣舞を披露したのが起源になっています。

 

 


争うことしか知らない家系に生まれた人が、どこかで足を止めたことがあれば、
「霊山で休んだ」との伝承から、北畠顕家も平和を考えていた場所であったと。

霊山が過去をあまり語らないのも、北畠一族の願いなのだから、
やはりそっとしておくべき山なんだろう。
 

 

 

はと・・・

 

 

 

紅葉の霊山----------------------------

 

 

 

 

余談-----------------

 

霊感が勝りすぎて、毎度、不思議な事を言う知人がおります。

(そゆとこ好きー)

 

ある時、興奮気味に、いや、力強く

「伊達政宗は震災の時に霊山にいたんだよ!」(なんか立っていたと)

と、言ったことがあった。

 

・・・WHY?

率直な疑問を英語でつぶやいてみる。

 

「あそこは北畠顕家がいたから」

 

・・・うっ

 

震災の時に、伊達政宗は霊山に登り、何かと戦っていたのか、

あれを阻止するつもりだったのか・・・

 

※イメージ(馬にのってる像しか使えない・・・)

 

信じるか、信じないかは、あなた次第です。スライム

 

あ、でも霊山は、「伊達市」だった。

初代、伊達を名乗った人の所だ。

なるほど。

 

北畠顕家について、地元の伝承でこんな民俗芸能が今も残されています。

 

昨年、西根神社でみた芸能。

 

 

「前沢の女宝財踊保存会」

 

 

「霊山にいた北畠顕家の家臣」が旅芸人に変装して、

南相馬市鹿島区の江垂に落ち延びた故事

をのちに踊りにしたものです。

 

 

南朝の義良親王ではないかな・・・
(赤ちゃんを抱いているのは天皇家をつぐ皇子?)

 

 

女性のみで踊ります。

 

北畠顕家は、

「君主を守っただけだ!」と、言うのだろう。

 

あっきーの行動は、異常なほど、早い。

彼もまた、足の早い羽をもった即道さんだった。

 

 

そんな霊山ですが、マタギがみた宝物は、

今もこうして語り継がれた人たちの想いではないですか?

※春先4月頃か10月頃~紅葉の季節がお勧めです。
歩道が歩きやすく初心者でもOKです。
登山口~城跡まで1時間くらい。

2時間半くらいで周遊できます。

霊山登山ガイドは紅彩館入口で入手でき、駐車場は紅彩館少し上にあります。

 

次も変な話を探してみよう。カエルヒヨコ