なんか、ずっとこういうの書いている気がするー。

これは、すごいタイミングでこの話の流れになるなぁ、と

いつも思います。(また長いです)
隠された東北の鴨家。

 


前回のつづき。

興味深い話は、

↓これ。

 

 

この話から
陽=鏡=太陽
陰=剣(矛)=月、と思う。

 

 

陸奥へもたらされた日と月の鏡



前にも書いたと思うのですが、簡単に言いますと、

八咫鏡は伊勢神宮にあるけれど、
この日鏡とかいうものと「矛」が伊勢になく、紀伊一宮にあった話です。

その根拠となる神社が、「名草」の中言神社(なかごとじんじゃ)。
これらの鏡と矛は、代々、「紀氏」が守っていたとあるのです。

 


※中言神社

 

※中言神社とは、中=長と同じ蛇の意味。
中は元は那珂、那賀、名賀など。
名草彦・名草姫という先住の民がいた説。

そこから繋がる下総国~陸奥へ。

この千葉から岩沼の玉が繋がっているところ。
いつもこれを書いているね~~。

 

紀氏らが(何かの)神宝を東北へ移したと仮定すると、
千葉県の玉前神社(たまさき)から、岩沼の玉浦が繋がります。

※玉前神社は、上総国の一宮。房総半島九十九里浜のとこ。

陰陽の組み合わせで「日月堂」があるのが(日天月天)
岩沼市の「鏡ヶ原」という地名をもつあの神明社。

 

 

阿武隈川のそば。

 

日月の旗をあげていたそうで、 鏡もあった御堂の話し。

 


川を挟んで湊神社(ワタツミのサメ伝承)、神明社あり。

 

亘理町の鳥の海干拓は、秋田の横手にいた兄弟が

行ったと伝説にあるのですが「ダイダラボッチ」なのです。

 

岩沼の玉浦は阿武隈川のそばで、神明社が多く祀られている所です。

 

元は、藤原朝臣朝狩(恵美押勝の子)が祀った

神明社から日天月天に鏡が移されたという。

 



阿武隈川から上陸してきた、という事です。

紀州→千葉県→阿武隈川をつたって岩沼へ(名取郡)
しかし、そこには、伊勢の神も坐す。

その鏡やら矛やら、剣やら。

を、もたらしたのは、ヤマトタケル(伝承)で、
ヤマトタケルは、本来、マシキトベの剣だったのを
奪った説がありました。(熱田神宮のこと)

 

ヤマトタケルが毒気にあったのは、トベが剣をとりかえした結果だという。

 

 

祭神:マシキトベ

 



実際にいってみると、マシキトベを祀るお社があり
とても綺麗で女性的でしたが、境内の外に祀られています。

紀州に戻り、その中言神社について、


この意味は、『トベ達の悲歌』津名道代著によると、
天群雲剣は、ヤマタノオロチの八つの尾のうち
「中の尾」からでた。

 


 

中央、中心、国中、最中。
多くの御尾(みお)のうち、首長のシンボルとして神剣を
もっているのは、多くの御尾のなかでもそのクニの中心
をなす「中の尾」だった。


祭祀王のことで、かつての祭事は、
姫彦(尾・頭・トベ・ウシ(大人))制であり、
姫が神と人の間にあって神の「中継ぎ」をする。


それが6月30日の大祓(明日)に関係するのか?
その祓えに組み込まれた為、中臣氏がとなえることになったのです。


物部氏との政権交代→部族を従えていた国津神との後退。

『日本書紀』では、

 

ヤマトタケルが上総(千葉県)
から陸奥国へ入るとあり、海路より
葦浦をめぐり、
玉の浦を渡り蝦夷の地に至る、と。

いつの時代か定かではないが、
囚人を住まわせていた場所ともいわれ、
千葉県の九十九里は、かつて玉浦と呼ばれていました。

 

この葦の浦が亘理にあたるという。

岩沼の玉浦付近ですと、海側は末裔たちが、塩釜神社の塩を精製する人たちと伝わります。

その由来に「長谷釜」とあるため
窯(釜)は、煮炊きの意味があり塩の釜が有力説。

 

それは、ナガスネヒコがいたという説もある

塩釜神社に繋がります。(霞ケ浦にもいたと思う)

その塩と斎宮の関係は深く、
そこに斎宮を置いたのは、陸奥を伊勢の巫女によって
祈祷をする祭事、神事にするために鏡をもたろそうとしたのかもしれません。

なぜなら、青森県の五所川原にある神明社は、
アラハバキを祀っていた所にあるからです。


そこは、貝塚。

→鳥海山のダイダラボッチの事。

手長足長明神が多い東北だけに~、
気になる貝塚とアラハバキの関係。

また、アテルイの里にも神明社。
 

 

 

アテルイ生誕地に神明社

 

 



その蝦夷とは、亘理町の鳥の海(干拓)~名取郡、とするので
安倍氏に対して、と思うのですが、つまりは、

貝塚にいたダイダラボッチ!のことなのかもしれません。

 



そうしたのは、藤原不比等の策と思われますが、
ヒタカミとヤマトの統合を目指していた藤原家も、もちろんいたでしょう。

妄想するに、ヒタカミの鏡、ヤマトの鏡、
という風に、何かと統合する場合、
その鏡をもつ卑弥呼のような存在が必要だったでしょう。

これらの話は、南相馬から北上すると
いろいろ伝播して符号してきます。

例:亘理町の「陰鏡山」という名を残すお寺。

 

 

このお寺は、会津の恵日寺を建立した「徳一大師」と伝わるのです。

影で支えていた人は、多い!

 

 

 

 

玉に依りつくトベ

 

 

なので、卑弥呼のような人が2人いたというのは、
元祖、トベであったと思うのです。

 

なぜ、東北地方に熊野が多いか?

トベの中にもいろいろ。
先住民の女性首長か、フチアイヌや、隼人の娘、
母系社会で長女にあった娘さんなど。
→化粧水という伝説に残される(土地財産を所有している隠語)

千葉を経由した背景に、日本最大の貝塚があり、

また、大きな津(港)。


九州筑紫の防人が千葉県の印旛に連れてこられた話がありました。

そこは「麻賀多神社」がある所で、
多氏が拠点としたところです。
※日月神示を下ろしたところ。

 


その地が、丸森の坪石で書いてました。
庭=ニワ=ニハの「印波」現在の印旛です。

波→幡から想像つきますけど。

千葉県へ上陸した海民は、北上し大伴氏の拠点として養蚕を奨励。

多氏のルーツは熊本県。
北上をつづけ、横穴石室を残してきました。

その横穴石室は、金がとれた涌谷町の
「追戸別横穴」が、安曇氏と同族の海民の墓場でした。

機織の奨励の他に「金の採掘」が含まれていることを
忘れてはなりません。


その採掘には、土地の権利が必要。

そこで立ちあがり戦ってきたのがトベという
女性の存在です。


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簡単に、
まとめにならない、まとめですと・・・

丈部は、阿部氏の管理、
大伴部は大伴氏の管理、
武蔵では入間が物部氏の管理。

急に武蔵が入ってきましたが、
埼玉は、出雲と物部がいます。

武蔵が出雲系なのは、大彦命がいます。(安部氏系譜)

出雲連合と物部氏らの九州連合を武蔵で融合させたのは、
大彦命(阿部氏の祖)だったと思います。
※大彦命の子孫の鉄剣が残されている(さきたま古墳群)

だから会津に向かい、そこには物部氏も伴った。
(物部神社が複数あり)

出雲族も青銅器時代は優位にあったのですが、
鉄の到来で、先住民たちは武蔵の豪族(大彦命ら)と融合して、
後に大和朝廷が来た時に譲歩したのだと思います。

その契約は、鉄だったからでしょう。

 



ナガスネヒコ(青銅・古代製鉄)からの

二ギハヤヒ(新しい鉄文化)へ、

辰砂=丹生=金・鉄に変ったことで、

蝦夷が台等。

鉄の古語は、「銕」と書いたのです。
蝦夷は、金の夷のこと。


そこで火の「アペ」が繋がる。
炭鉱の愛宕神。

古来は「ん」の発音はしてなかったのです。
九州のアペ(火神)は、アイヌ語のアペから
濁ってアベになったでのは?

 

(阿蘇山)

火山地帯にあれば、九州から東北へ行く理由がみえてきます。

青銅器時代から鉄の時代の転換期というのは、
ヒタカミ(エミシ)の鉄とヤマトの鉄の和合であったと。

とすれば、
ナーガ系(蛇・龍)のナガスネヒコは東北へ逃れ、
鳥系の物部氏(二ギハヤヒ)が、

インドで合わさっていた。

 

ガルーダに乗るヴィシュヌ。→スサノオ

 


そこに、海民の安曇氏が混合してきます。
(紀氏など熊野は瀬戸内海を経由)

 

出雲が東北にいたから、

二ギハヤヒの大和は、統合するべき働きをしたまでです。

その象徴たる「坐」は、何を示すか?

見えないというのは、
「女系の系譜」だからと思います。

かたくなに守り続けた血統。
女系にあったと思います。

 

ヒタカミとヤマトとの婚姻関係。

 

トベは鴨家にいた?

 

重要なこと。

塩釜神社の謎。

玉依姫が、玉に依りついてきたのは、
上賀茂神社の河合神社のことと思います。

 

 

下鴨神社の入り口にある美の神様。

 


 

だから「玉前」とか「玉浦」とか。
玉というのは・・・・

河合神社境内には末社があり「任部社(とべしゃ)」
言っており「専女社(とうめやしろ」でした。

 

創建前からあったというので、
こちらの方が本家では?


トベ・・・とよめる。

 

これが賀茂斎宮のルーツでは?

 

古来の巫女(トベ)を

鴨家が継承している、ことになると思うのです。

 

それは、伊勢とは違う斎宮なのか?

 

だから、

塩釜神社では、賀茂と貴船を「出雲のいた泉」へうつした。

そこには「ニワタリ権現」があるからです。

ニワ=ニハ=庭

 

なぜなら、河合神社は、貴船神をも祀るからです!

これは、隠されたというより、

大和で「坐を下ろされたこと」では?

だから、日高見国で「その坐の復権を求めた」と。


鴨家のヤタガラスが、玉に依りつく子を船で連れて来た。
その系譜は、誰なのでしょうか?

守り続けた意味とは?

鴨家が本家のトベ的存在があったとすると、
それを隠すためにヤマトタケルが降臨。
大鳥神社は、そうだったのか・・・

隠されたトベの後が、鴨から賀茂に・・・?
だまされている人を「いいカモだ」と言う。

元祖、トベがいたならば。
東北に伝わるハイヌベレ。

その征伐をさせてきたのは、藤原家の陰陽師だが、
坂上田村麻呂に背負わせてきたこともあったから
マロ伝承が多いのです。

 

 

伊具郡に忌部はきていた

 

最後に。

 

この話に繋がったきっかけを。

数年前に、3・11の祈りの舞に知人から誘われて
南相馬へいった時のこと。

その時、徳島県から忌部氏の先祖の方で
忌部研究会の話を聞かせて頂きました。

「忌部は南相馬まで来ている」と。

その根拠が日鷲神社と教えてくれました。

忌部氏は鷲なので、埼玉にも鷲が多く
日鷲神社は埼玉にもあります。


この忌部のご縁を繋いだのは、
丸森町青葉の熊野神社がきっかけでした。

その熊野神社は、阿部貞任が紀州熊野の神を勧請した

と伝わり、木像の狼の像もある所です。

 



写真を知人にみせたところで、
なぜか忌部に繋がったのです。

ヤマツミの狼が繋いでくれたことです。

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長くなりましたが、

地元の言い伝えに沿ってみると、
ヒタカミのことが見えてくるような気がします。

ほとんど文献にはのっていませんが、
史実にもとづかないとしても、
伝説、言い伝えは残されています。

また、渡来人もそれらをひろって鎮魂してきた
能や舞があり、ご先祖様は、その道を歩いてほしいと
「印をつけてきた」のです。

(世界の旗を掲げていた斗蔵山)

まだまだ過去記事にはストックしてますので、
少しづつ出していきますが、

今回は、これでおしまい。

ジミヘンからの~~
「えんころ節!」Yeah♪おばけ指差し

(斗蔵神社:えんころ節の発祥)

 



亘理町の小学生が一生けん命唄ってますぞ。(10年前)

 

 

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とにかく、繋がるね。
「束ねる」プレアデス。

 



角田の宇宙へ。

 



JAXA!!
日本が宇宙へ導いていくことを信じて。

 


 
ここは展望もあるので、360度、伊具の古代史が妄想できます。

 



ぜひ、涼しくなったら歩いてみてください。
宇宙の斗のクラへ。

※斗蔵山は、上まで車でいけます。
広い駐車場あり。
階段を上り神社と千手観音への道は、10分くらいです。

下から登ると20分~30分くらいかかると思いますが、
駐車スペースはありません。

 

妄想は、おしまい。