前回の続きですが、
ちょっと長くなり難しいですが、気合いで繋ぐ。。。オエー

今さらですが奥州安倍氏は、安倍の方らしいです。
安日彦を祖とするため。
後に阿部→阿部比羅夫説。(詳しくはわかりませーん)

 

 

斗蔵山のこと



前回の続きで、補足といいますか、
斗蔵山(とくらやま)が、なかなかすごいのです。

下から歩いてみたことがあります。

 

 

空海が出てくるのですね~。

青銅製の千手観音像があったそうだ。

 

 

 

角田の領地は、「石川氏」

蘇我氏と繋がります。

「おとくらさん」と呼ばれており、
初めて拝観した時、すっかり魅了されました。

 

 

霊場の痕跡は・・・薄いです。

 

 

 

 

ちょっと荒れている感じなんですよ・・・

 

 

 



おとくらさんの千手観音様は、
とても人間的で女性的な、マリア様みたいで好きです。飛び出すハート

等身大の大きさ。
真近で拝観できます。

 

※斗蔵山のサイトより

 

由縁は、

平城天皇大同2年(807)坂上田村麿の勧請と伝え、
保食神を祀るを以て斗蔵山と名づけた。

元斗蔵三社大明神と称し
(稲荷は中央、山王は左、白山は右の三社)
斗蔵山頭の安居山斗蔵寺の鎮守社であった。

 



寛政年中(或は万治年中とも)野火の為社殿古記録が烏有に帰した。

同年、弘法大師がこの地を訪れた際に、
「紫雲天になびき 奥州無二の霊地なり」と賛美したと言われております。

 


※白山に向いて拝観する形になっていると聞きました。


斗蔵寺には秘仏の銅造千手観音像懸仏(県指定文化財)と

木造千手観音立像(市指定文化財)及び眷属の二十八部衆と雷神、
風神が安置されています。 

秘仏の千手観音懸仏は、千手千眼世音菩薩ともいい、
両手のほかに左右二十手あり、
それぞれの四十手四十眼二十五の功徳を配して千手千眼とされています。

ここは、ウラジロガシの北限として林木遺伝資源保存林に指定されており、
国内有数の貴重な群生林です。

 

 

素晴らしい植生がある森です。

 

 

 

ところで、西と東にわけられた

西岸(隈西)を西根、
東岸(隈東)を東根。

のことで、

西は、縄文。
東は、弥生という位置づけ
があったことが深い。

だから「斗」になったという話。
北斗七星に結んだことは、蝦夷征伐で鎮魂される方法。。。
 

これみれば、わかると思いますが、

鹿島式の祀り方です。

 

A:斗蔵山 B:鳥屋嶺神社 C:熱日高彦神社

青線・・・阿武隈川(川を挟んで3つ祀る)

 

ここは、鹿島神社、香取神社、神栖の地名もありますが。

 

鹿島は霞ケ浦のことで、東国三社ですね。

角田も、同じように模しています。

 

北には「高蔵」の高蔵寺(こうぞうじ)→後でわかります。

 

 

海人族の伊具

 

 

伊具の一宮・二宮は、

熱日高彦神社と鳥屋嶺神社の二社があります。

東に熱日高彦神社があり、
西は鳥屋嶺神社。

しかし、高橋富雄先生によると、
元は、西には斗蔵神社だったのでは?という話が。

※高橋先生は東北大の名誉教授で、
東北古代史研究の第一人者。
エミシの聖地、北上出身の方ですから。
先生のおかげでエミシが好きになりました
照れ

さて、そんな先生の見解を参考に、
角田の斗蔵の方へ通っていた時期があったので、

そのまとめです。

斗蔵山は、岩山を磐座、磐境に見立てた神体山であり、
天神から地上へ降りる神座と考えられています。


相当古い時代からあったとされるため、
坂上田村麻呂と千手観音が置かれているという想像。


そして、西にある(阿武隈川のそば)の鳥屋嶺は、
平安時代中期から神仏習合、後に観音信仰と広まり、
鳥屋嶺は「戸座」と呼んでいたのだそうです。

聖なる座には、クラをつけるのですが、
鳥屋嶺(トヤミネ)は、鳥ではなく「戸」で、
屋は「座」の誤字ではないか?と。

斗蔵と戸座。

しかし、戸座を、鳥の屋としたのは・・・
ニニギの天孫降臨(屋根)は天孫。
→守屋の「屋」のように?

天孫降臨地に先住の神を合祀していると思うのは、
南相馬からヒタカミは移動しているからでしょう。

だから、鳥屋嶺神社は、サルタヒコを置いているのです。

 



中央に、ウガヤフキアエズ、
左:猿田彦命 
右:ウカノミタマ。
の三神を祀っています。

 



では、戸座とは何か?となれば、
人ではなく、

イワクラ信仰である縄文など

自然崇拝の名残です。

阿武隈山系は、花崗岩が非常に多く露出しています。

そのため、戸を「斗」に変え、

北斗七星にするといったやり方は、
東北に多い蝦夷に対しての「鎮魂」でした。

それは、岐阜県にある縄文遺跡とも似ています。
(星の観察をしていた所)

天に星を投げる場合、天と地を反転させます(道教思想へ)

石信仰は、ケルト、縄文がありますので、
そんな鎮魂をしていた海民がいたのです。

北上川の日高見水神社に対し、北上の河伯(水神)であるから、
阿武隈の河伯が、ここの伊具にあり熱日高彦神社は、
オチかアチの意味があり、日高見の当て字と考えられると。


そう、阿武隈山系と北上山系が、

地質的によく似ているから。

熱=アチ(オチ)の日高彦。
アチは、阿智がいますが、

安曇氏の阿智、

アマツミ、海人の転訛

といわれます。

ヒタカミは、海民であり、

ここには、安曇のイソラと、

物部氏をサポートした「海部氏」→真名井の壺


ということなので、古来、ヒタカミの一族はここに来ており、
後でヤマトと融合したという想像。

高橋富雄先生も、
日高見国と倭国の和合はあったと思う、といったことを。

分断、征伐というのは違うのではないか?ということは、
私も感じています。(まだこの頃は)

東は渡来系の神、
西は先住民(縄文)の神を置いたので、
ここが縄文と弥生の融合のあった場所、とも言えるのです。

 

 

伊具と伊賀のこと

 

 

この「伊具」で、似てる、と思ったのが「伊賀」

「高倉神社」が三重県伊賀にあり、

伊具郡の麻とつながるのです。


高倉神社にある霊剣が、
神武天皇の霊剣である
という説が。

同様に、南相馬には

「高座(たかくら)」の地名があるので、
高いクラ、「ト」のクラというのは、
神武東征の際に、関係する「高倉下」かもしれないのです。

 

※神倉神社の入り口にある石碑

「高倉下」は、紀州和歌山県新宮市の

熊野速玉大社の奥の院「神倉」に降臨したのですよね。

 

天磐盾とあり、コトビキ岩に降臨したとされる。


そのトクラが角田へ伝播したと思います。

日高見国の戸座となれば、
誰かがそこに「坐す」意味になるのです。

「座」は、だいたい、権力を表すものですが、
「坐っていて何もしない」意味があり、
ただ、そこにある、すわっているということ。

これは、王座というより、
「何かがずっとそこに坐す(在る)」
という意味なのです。

だから~~、


南相馬の高座にある神社といえば、そのまんま

高座神社(たかくらじんじゃ)があるのです。
イシコリドメを祀っています。→紀氏では?

 

 

 

・ご神体が長さ五寸(15センチ)(なんの?)大あくび

・白山信仰あり

・「奥相志」によれば、高倉下(熊野)と鹿島の神。

角田の斗蔵と似てます。


天の岩戸の時に用いた鏡とは、
伊斯許理度売命(イシコリドメ・イシコリトメ)」があるからです。

 

(イメージ図)


ですが、神々をいろいろ変えている神社なので、
なかなか実態がみえない所でもあります。

アザマロの反乱は、ここにヒントがありそう・・・。

何度も書いているヒタカミのことですが、
もう少し点と地を結んで見れば「玉浦」があります。

(これは後にします)

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卑弥呼(日巫女)の鏡をもたらすのは、
大和王朝と日高見王朝の2つの鏡であると。

南相馬でも、大和と日高見は、一時期、融合していたのです。

それに、伊賀氏という豪族もいて、

阿部氏の系統だといわれるのですよ。
すべて、繋がりますね。


安部氏や物部氏などは、

ヒタカミとヤマトの和(倭)を、

望んでいたのかもしれません。


宮城県には、青麻神社がありニギハヤヒを祖とする穂積氏です。

 

穂積氏は、大阪の石切剣箭神社上之社にあります。

 

 

 

 

 

穂積氏の家紋に「石切」の文字。

ニニギと二ギハヤヒは、兄弟。

つまり、神武東征にヤタガラスが導いてきたことは、
東北へも続いていた、という事です。
 

その道は「鏡」にあった。

イシコリトベが作った鏡を、
ヒタカミにもたらしたかった。

鏡は、ひとつではない。おばけ

 

剣と矢を象徴とした石切。

 

ヒタカミとヤマトを結ぶための
陰陽があった!?おばけ

 

「あ」↓

 

 

「ん」↓

 

 

ええーーと、まだ終われない。

 

まだ次あります・・・絶望 ←ぷしゅ~~。

 

つづく