「文治三年(1187年)春、兄頼朝の追討を逃れ、奥州平泉に落ちのびる
義経主従13名が、亀割峠を越え当地にさしかかった時、
かねて身重の北の方が急に産気づき途方にくれた義経は亀割山中の
観音堂に北の方を休ませ、弁慶は産湯を求めて沢へと下った。


浅き瀬を見て川を渡り紫雲立ちのぼる川辺の大岩を薙刀
で突き破ると不思議にも白龍昇天のごとくお湯が噴き出たという。

このお湯でまもなく生まれた若君の産湯を使い数日をこの地で
養生し回復をまって平泉へ向かったという、
これが瀬見温泉発見の由来である。

建立の年代は定でないが、度々の火災にあい、現在の本堂は享保年間
(約1718年)頃に再建されたものとされている。

祭神は湯の守護神である薬師如来と不動明王が祀られている。
欄間や木鼻の彫物は、初代 出羽の勘七木

 

竜の作といわれている。
祭礼は毎年九月一日である。」

 

 

2016年7月20日の記事。
過去にいった記録。

 

 

 

 

蝉丸と瀬見ね。

 

 


 
瀬見温泉の近くに、義経大橋がありその橋をわたると、
弁慶の硯石と弁慶の投げ松があります。

 

 

義経大橋(国見に次いでこの義経像もすきーっ飛び出すハート

 



なぜか、全国の巨石には弁慶の話が多いのです。

 



弁慶と義経の巨石については、遠野地方にもあり、
特に北陸に多くあるようです。
しかも、足が早い人の伝承も。

 



石の伝説の多くは「女性」です。

瀬見温泉に伝わる弁慶は「トリアゲバアサン」という
お産婆さんとなっており、つまり、義経のそばに「女性がいた」
ことを示しているのですね。

当然、追われる者たちの中に女性がいても不思議ではないです。

 



(産湯の絵図)

北陸における義経伝承では、

「平泉寺の鐘をつき、同時に弁慶が走りだし音の聞こえなくなるまで
足を試したら数里隔てた所まで来ていた」
と。

これは秩父の即道さんと同じで韋駄天の内容になってます。
と、すると6の数字。

ついで、白山の平泉寺詣でのお礼に義経がホラ貝を置いていったとか、
他にも、平泉寺から白山まで走った時の弁慶の足跡岩や、
義経が試し切りにした三枚の岩。


 

朝倉山の南の松谷の地で、弁慶が岩に箸をたててだんごのように丸めて、
山の上から投げた。などなど。

修験者や山伏に姿で逃れた話も多く残されています。

 

 

義経は白山信仰だったのか?
岩手県には白山と義経、平泉は密室な関係にあります。

白龍のお湯の話からも、北陸へ行ってから山形入りしたような形跡。

北陸の伝承では、岩根宮(現在の岩本神社)は白山比咩神社の三社のひとつ
(後の2つは鶴来町の金剱宮と鳥越村の別宮)で、
当時十一面観音像が祀られていました。

義経記によると、義経主従は安宅の関を超えた後岩根宮に立ち寄り、
十一面観音像に詣で、奥州への道のりの無事と今後の武運を祈願し、
岩根宮で通夜したと伝えられています。

また、境内には「義経通夜記念の碑」があります。

義経記の巻第七には…

「いざや白山を拝まんとて、
岩本の十一面観音に御通夜あり。
明くれば白山に参りて、…」

 

と記されている。
(岩波書店/日本古典文学大系37・義経記より)

 

 

 安徳天皇を守れなかった説

 

 

よく聞かれる話。

 

青森県八戸に櫛引八幡宮があり、国宝になっている鎧があります。

 


 

国宝赤糸威鎧「菊一文字」といって、菊紋様の鎧です。
写真はこちら。

 

 

櫛引八幡宮の由縁には、南部家文書
(八戸根城南部家・『八戸家系』、『八戸家傳記』)によると、


文治5年平泉合戦(1189年)に戦功をたてた光行公は源頼朝から
糠部郡(ぬかのぶのこおり、 岩手県北部・青森県東部の広大な地域)を
拝領し建久2年(1191年)に入部、


後に家士を遣わして甲斐南部郷の八幡宮御神体を奉持せしめ、
霊地をトして櫛引村に 宮社を造営し武運長久を祈ったという。

 



「櫛引八幡宮縁起旧記」によれば、このとき遣わされた家臣とは津島平次郎で、
平次郎は宮地が決まるまで六戸の瀧ノ沢村に仮宮を営んで奉祭した。

また、甲斐から別当僧の 宥鑁(ゆうばん)が供奉し、
別当普門院の祖となった。

津島平次郎の子孫に当たる 滝沢家は八幡宮の鍵守として、
普門院とともに代々祭礼を取り仕切った。

また、『櫛引八幡縁起』には、櫛引村に大同年間(806~810)に
坂上田村麻呂が祀った 八幡宮の小社があり、同神同体であるので
瀧ノ沢の仮宮からこの地に遷座したとあるが、
以後、 櫛引八幡宮と称し、南部の総鎮守となったそうです。

 

 



他にも義経は、平泉高舘で自害したのではなく、
青森へ逃れて八戸市内に滞在し、アイヌ人から戦闘技術などを学びながら、
北海道へわたった。

後にモンゴルに渡り、チンギスハーンになったという話もありますね。

 

安徳天皇の持っていた神剣が皇子と共に海に沈んでしまったと伝わるのですが、
その剣が、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)であり、
スサノオがヤマタノオロチで使った剣で、草薙の剣?と。


頼朝は、その剣だけは奪ってこい!と、

義経に頼んだのに、失敗したとな。

剣は2つあったともされ、御醍醐天皇だったかな、鍛冶師だから

自分で剣を作ったとかいう話も名取に伝わってますぞ。


安徳天皇の持っていた剣は
コピーで本物は伊勢にあったとかいろいろ。

 

じゃ、今もっている天皇家のは、なんなの?

変に拡散されすぎてわかりませーん。

 



もしそれが手にはいったら、スサノオ王朝を頼朝が独占できたと思うけどな。

出雲復権…。
しかし、義経が手に入れてしまった
(皇族から官位をもらっている)ことに腹を立て、
頼朝は義経を迫害したという話もあり。
 
それで、義経は青森県まで逃げてきた・・・なぜ青森の八戸?
あのことか。

南部藩にそれが見える甲冑。

 

でも、鷹が河童を押さえつける。

 


 
義経は天皇を受けつぐべき三種の神器を守れなかったと
伝わりますが、兄から追放された理由は他にあるでしょう。

天皇の系譜というか皇族になりたかった義経がいると思うから、
三種の神器を本気で受けとるつもりだった。

誰のために?


その象徴に自ら鎧を預ける儀式が武士としての習わしだったと思うが。

 


 
櫛引八幡宮の鎧も義経が奉納したと伝わり、
だから、八戸八幡宮の鎧に菊紋様をつけてしまうのです。

これは、前回の白鳥十郎長久の伝説と似ています。

義経伝承が異常に多いのも、奥州藤原氏が密かに逃していたり、
なんだか義経の行動から、祖である藤原秀郷と「平将門」の対立から
平家もまた源氏を利用していたのかも。

 

平将門は建国し新たな王になることを望んでいたからだよ。

 



最期は、モンゴルで生きているといった伝説が生まれるのも、役小角みたいだ。
こういった伝承を広めているのは、修験者たちかもね…。

 



おしまい。