これは、かねてから謎だな~と思っていたこと。

なぜ、栃木県(当時は下野国)だったか。

いろいろ妄想するんですよ。

 

藤原秀郷が、奥州藤原氏の祖にあたる系譜だとすれば、

その家臣たちが、宇都宮へきていることが自然なことなのだろうか・・・

 


栃木県(下野国)、関東の藤原氏の本拠地でもあった。

早くから朝廷についていた国。


おそらく、ここからほとんどの藤原家が東北へいったと思う。

 

樋爪氏について、記録しておきたい。

岩手県紫波郡紫波町日詰字箱清水という所に
「樋爪館」がありました。

奥州合戦の時に、奥州藤原氏についた家臣たちは、
宇都宮へ連れて来られ、神々の人柱となり、
捕虜となった一人に、紫波町の「樋爪(日詰)氏」がいました。

 

「ひづめ」の語源は、当時この一帯が北上川の船場として栄えており、
アイヌ語のピッツ・ムイ(河原の港)が転訛したものとされる。

 

※2015年の記事からまとめます。



岩手県紫波町は、「平泉の分家」と言われて、第二の平泉と称される。

義経伝承も多い所。
奥州藤原氏の一族樋爪(比爪)氏の中心的拠点としていた所でもあり、
「しわ」という名前からして、とっても興味があります。

 

※北上川


「比爪」「日詰」など、漢字表記がいくつかあり。
比爪館は、平泉初代藤原清衡の四男清綱が紫波に派遣され、
その子、太郎俊衡(たろうとしひら)、五郎季衡(ごろうすえひら) らが、
居を構えて比爪の地の産金等を支配したとされています。

 

 


 

赤石小学校がその比爪館として看板があります。
校庭内に古墳?みたいな塚があるけど・・・。



 
よめねー。

 



樋という漢字は、懸け樋(かけひ)から由来し、「ヒ」なので、
火と水が関係していると思い、鉄民だったと思われるので、
以前から気になっていた人たちでした。

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さて、飛んで栃木県。


宇都宮市に三峯神社が3社あり、宇都宮駅に近い田川側の三峯神社は、
「樋爪五郎の墓」があり、三峰神社として祀られていました。


 
東北の三峰神社をずっとみてきたから、

「裏三峰」しか、知らない。

秩父人なのに。

岩手の地元の人から、昔の三峰信仰は「邪教」と言われた。

三峰が・・・邪教。

まあ、それに近いかもな・・・

まあ、それも近いかもな・・・

・・・そうなのかな。(遠吠え)

ヤマトタケルもあの武甲山をみると、
どーなんだかな。

 

狼は、盗人を見つけちゃう、

嘘は、ばれる。

都合悪い人には苦手なオオカミだった。

やさぐれる秩父人。
東北では異邦人ですが、それがなにか?

でも、平家が東北にもたくさん落ちぶれて、
いや、落里に暮らしていたので心強いぞ。ニヤニヤ

さて、そんな三峰信仰は宇都宮でもギスギスしていた。


 

樋爪氏のお墓の由来は、宇都宮二荒山神社伝によれば、


1189年源頼朝に敗れた奥州藤原氏
の一族の生き残りが各所(関東)へ配流され、
そのうち分家の樋爪太郎俊衡入道と、弟の五郎季衡は、

宇都宮二荒神社にて戦勝祈願のお礼として降人(降参する)し、
配されたと伝わる。

 


・・・三峰「山」といっているのは、ちょっと違う三峰なのかね?


宇都宮の歴史と文化財より、

樋爪氏は奥州藤原氏の一族といわれ、
源頼朝が藤原氏を追討した際、捕虜(ほりょ)とし、


祈願成就のお礼の生贄(いけにえ)として二荒山神社に献納(けんのう)された、
樋爪五郎季衝(すえひら)とその子経衡(つねひら)の墓だと伝えられている。

この樋爪親子は、頼朝から二荒山神社へ奴(奴隷)として引き渡されたが、
故郷へ逃げ帰ろうとして上河原で追手に捕えられ殺害されたといわれている。

 

実際のところ、わかりませんが、昔は神に捕虜を差し出す、ということがありました。

 

※樋爪五郎の名

 

さらっと動きを。

源頼朝出陣の道(白旗):鎌倉→宇都宮→那須→白河→国見→大崎(玉造)

 




→平泉(この頃、藤原泰衡は秋田の大館へ逃れ殺害される)

→樋爪氏兄弟が降伏し、厨河へ(盛岡の西あたりで安倍氏が築いた古代城跡とも)。

→頼朝は厨河柵をうつ。
後、坂上田村麻呂が勧請した伊沢の八幡宮に奉幣。

→頼朝、無量光院(平泉)を参拝。→帰路:宇都宮へ。

→頼朝『下野国の宇都宮社に奉幣。(10月29日)
去る7月25日、奥州征伐成就の際には捕虜一人を神職としますと祈願された
とおり樋爪俊衝法師の一族をその任とした。』


といった流れは、「鎌倉タイム:奥州合戦」から参考にしました。

 

 
2つの塔
 
 
三峰神社と、ムカデだか、蛇だか?石像。
 

 


想像するに、末法思想に基づいて、奥州藤原氏の征伐をしないと、
浄土の世界が開けないと頼朝は思っていたんでしょうか?

弟の季衡は故郷の寂しさのあまり、宇都宮二荒山神社を抜け出し、
追っ手に捕らえられ討たれたと伝わり、
その場所が三峯神社のある所と伝わるのです。
すぐ先には田川が流れています。

 

 

しかし、平泉志巻上には、「降参した」とだけある。

樋爪太郎俊衡入道は(法名は蓮阿)藤原清衡四男泉十郎清綱の嫡男なり。


文治5年平泉滅亡後、追討を受るに際し同9月4日、
其居館(樋爪館を称す志和郡五郎の東北あり)を焼いて奥地に遁れしが
同15日三子を具して弟季衡と共に厨川の栄所にて降参す。』

 



兄の俊衡入道は出家して「蓮阿」と名乗り、頼朝から信仰深い事と
高齢であった為、討たれることはなく紫波町の地へ安堵
(土地の所有権を得る)された。

 

ちょっと見づらいけど、系図。

名取の高舘山にこもっていた話もあります。

 

※高館山(名取市)

『江戸時代の文化8年(1811年)に成立した『嚢塵埃捨録』には、
奥州合戦の折、宮城県本吉四郎高衡と日詰(樋爪)五郎頼衡、
名取別当の金剛坊秀綱が高舘城に籠り、2万の兵で鎌倉軍を迎え撃ったとある。


・・・なるほど。
義経伝説とかぶる。
逃れた奥州藤原勢の一族と源義経の逃亡を重ねている。

つまり、義経ではないけれど、義経の言い伝えにのせることで、
家臣たちが、あの世へのご加護に「義経と共にいる」
という浄土を熊野別当(熊野信者)が語り部として伝えてきた、

という事なのかもしれません。

ちなみに、「高館」の由来は、ある専門家によれば「多賀」が由来との事。
多賀→高に。

『高衡と共に高舘城に籠ったとされる日詰五郎頼衡という人物については、
日詰五郎という名前からは五郎沼の名前の由来とされる樋爪五郎季衡を連想させるが、
頼衡という名前は秀衡の六男の名前でもある。

 

(wikipedia)

『尊卑分脈』によれば頼衡は奥州合戦の前にひいては義経の死の2ヶ月前に泰衡に
よって討たれたことになっているので、高舘城に籠った人物はその頼衡ではなく、
日詰という姓が冠せられていることから、樋爪一族の誰かであったと考えられる
。』


樋爪氏の誰か一族が、高館山に籠って頼朝に参戦したわけで、
いろんな氏族が、高館山を利用していたのです。

■砂金との関係---------------------------

またここで金なのですが、

紫波町誌によれば、
平泉藤原氏の中で、唯一、樋爪氏が奥六郡の所領を分割して得ています。
他の藤原兄弟は、地方の所領になっている。(横手や高畠など)

 



奥六郡は安倍氏の領土だったのを、土地の所有をどう分配するかとなった時に、
内部争いになったことがあるので、摘出長子(嫡男)が単独で相続することに
なり、他の兄弟は奥六郡以外へ譲与された。

 
※奥六郡の領土(10世紀):奥六郡と呼ばれた岩手より

そんな藤原氏兄弟ですら得られない土地を、
樋爪氏が奥六郡の一部を得ることになる。

これは例外だったようです。

その理由のひとつに、「砂金の産出」があったそうです。
施策の一環として、樋爪氏と砂金の支配関係があったと考えられると。

中央から差別されないために必要だった、金と馬の産出。

エミシ馬がいるように、これだけは、中央より勝っていた東北の宝とも言える。
その産出や砂金交渉などにあたっていたのが樋爪氏であったと考えられ、
東北の金は黄金の平泉を建設することになりますが、
中央への砂金の需要が大きかったので、奥六郡は金持ちにみられていた。

→黄金のジパング

奥州藤原氏は樋爪氏を砂金のキーパーソンとしてみていたのではないでしょうか。

紫波郡東部の産金が資料にあるのは、近世初頭とされますが、
佐比内から赤沢・船久保、山屋にかけての山地には、朴山金山を筆頭に、
南部領内でも屈指の産金地で金鉱脈があったそうです。

 



豊富な金を産出していた中で最も有力な産金地が紫波郡東部と和賀郡西部
と言われます。

赤沢荒屋敷家の伝承によれば、同家は平泉藤原氏時代に
砂金採取のために来住した者の後裔であると伝わる。
なので、ここに義経伝承が集中しているのですね。

 

金売吉次がいるから。
 
薬師堂に金を隠したとか、
地元ではいろいろ伝説となっているくらいなので、
樋爪氏が砂金と深く関係していたようです。

 


※紫波町薬師堂

 

東北に薬師信仰が多い理由は、

不老不死の徐福思想はあると思います。

それと秦氏。

奥州平泉の泰衡含め一族は、討伐されているのですが、
樋爪氏の一族は、ほとんど無傷で生き残っていたそうです。

そのため頼朝は、樋爪氏一族を討伐する予定でいたが、
すでに樋爪氏たちの手によって
樋爪館は焼かれており、逃走した後だったという話。

 

真相は謎ですが、

いつも雄大な北上川です。

 

 


 宇都宮二荒山神社は、主人の実家の氏神です。

樋爪氏についてはその時から気になってはいましたが、
紫波町に樋爪館があったことを知る時に、

宇都宮のことを思い出すことはある。

また「三峰神社」で樋爪氏と繋がるとは思っていなかったので、
樋爪氏の供養のために、紫波町へ行ったような気がします。
 
※これらの史料は、岩手県紫波町のサイト
「紫波町史電子データ」を参考にしました。

宇都宮に繋がったので、北関東のバトル伝説とか

知られざる石巻と日光の関係を記録していこうと思います。


紫波町は、おしまい。