★このブログについて、情報量がとても多いので
「テーマ」を細かく分類しました。
興味のある内容を探しやすくしましたので
テーマからも参考にして下さい。

 

 

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前回の山形県からひとつ過去記事をアップしておきます。
※gooブログは退会しました。

以前いった縄文の女神の所へ。

 

 

縄文人の女性は寿命が短い

まず、縄文知識。

 

縄文人の寿命が、ちょっと衝撃的で。

最も死亡例の高い年齢が男性で30~34歳。
女性では20~24歳。


30代後半以上の年齢は低く60歳以上はほとんどいない。
10代後半~20代にかけての女性が最も高く、その原因が出産にある。

この頃、出産は死を意味していた。

今では考えられないが、土偶が多く創られるようになったのもそれがある。
出産の死亡率は高く、乳幼児でも死亡率は高かった。
※地質ニュース659号(縄文時代の環境その1)より参照。

 

※お腹に渦巻き
 
そんな縄文時代でも、国宝になっている縄文の女神は、
各地で発掘される縄文ビーナスとはちょっと違う。

 

 


※縄文の女神(山形県立博物館)

妄想するに、渡来した人の姿を描いた気もする。

その縄文の女神は、山形県立博物館にあり、
後ろの背中の曲線美が美しい土偶として注目をあびた。


しかも、背中は磨かれていたとされ、
縄文人はセンスあるアーティスト集団では?との説も。

 



「土偶を創る職人がいたこと」

縄文の女神は縄文中期のもので場所は、

尾花沢新庄道路の建設ルートにかかる
奥羽線舟形駅の西、小国川左岸に発掘された。

 



高さ45センチと日本最大の土偶。
 

耳飾りを意識した孔がありお尻が突き出ているのは「出尻形」という。
パンタロン風なズボンが粋な土偶。

「土偶はまじないのため割られたりして投棄されるものが普通ですが、
今回は、狭い範囲から全身が出土し、しかも数cmから10cm程度のもの
30体ほどが周囲から見つかっています。

土偶の位置付けについて、当時山形県教育委員会文化課の職員として
発掘調査を担当された佐々木洋治氏は、

他の土偶が儀式が終わればすぐに壊されるのと違って、

ある程度の期間、安置されるなど中心的な土偶であった可能性が高く、
生命を産む女性をかたどり健康祈願やまじないなどに使ったのではないか」

 

と評し、土偶に詳しい国学院大学、小林達雄名誉教授は
「これだけ大きい土偶の発見により粘土製の土偶がすべて同じ性格をもつのではなく、
土偶に役割分担があることが解明される糸口になる貴重な発見」

と評価しています。
 

高度な精神文化が芽生えていた大きな証と。

 
 
頭の形は、ターバンのようなものを巻いているように見えるのですが、
雲南省などの中国北部に、このような民族がいるのと似ているね。

古ヨーロッパでも鳥人間といわれる顔が鳥のようなものだったり、
不思議な土偶がたくさんあるが、こんなにきれいな曲線美はみたことがない。

また、頭の小さな穴は、鳥の羽などを刺したのでは?
との解釈もあり、羽飾りがあった女神と想像すると豊かな芸術。


やはり、クリエイトする大事さは、縄文がルーツにある。
 

 

縄文ビーナスの西の前遺跡

<2019年5月>現地へいった日
 
縄文土偶の中で一番好きな縄文の女神!

 

 

「西ノ前遺跡」

 「日本最大の八頭身美人土偶」と地元ではうたっている。

 

 

スタンプに夢中。

 


 

この八頭身の手長足長だったと思われる美女に惚れこみ、
鳥海山の手長足長のルーツぽい気もする。
 
なんとな~く、弥生が入っている感じがする。 
ズボンみたいなパンタロン?(今風の)

 

※オーブが写ってました(後ろの鉄塔は画像処理して削除してます)

 

 


 

ハイセンスな渡来人が縄文人の村にやってきて、 
縄文女子はザワザワした。笑

 


 
で、私はこの時代、この土偶を作りまくっていた気がする。 
この土偶に親近感が湧くのが不思議。

途中で飽きて、いや、実際にこの人たちに会いたいと、
シマを出て、航海し大陸へ向かう。

しばらく、世界を放浪。

かっこよくパンタロン並みの衣服を着て、
ドヤ顔でさっそうと風のようにストールをひらめかせ、
外国語で口説こうと思って
シマに戻ったら、縄文人がいなくなっていた。

代わりに、ひょうたん頭が増えていた。←言い方。

して、グレートジャーニーな世界に目覚め、
放浪した記録を説くために語り部となる。

それが東北のもののふたちの目にとまり
スカウトされ、村の長になり、
ひょうたん頭になったが、
倭語が通じず、村にはなじめなかった。

・・・なんだ、そのあっさ~い渡来人は。

 

遊ぶ。↓

 

 

↑弥生デビューの人。

 

みずらの中心から長い毛をたらすのが流行っていた(ビジョン)

 

 

精霊「夜刀神」

 

東北の国宝、文化財級の土偶がたくさん見られる東北。

 

※舟形町立歴史民俗資料館。

なぜか、青森の土偶は十字型が多い。

 



左:秋田県坂ノ上遺跡、中央:青森県三内丸山遺跡 右:宮城県鍛冶沢遺跡

しかし、なぜ、土偶は破壊の一途を辿る運命になったのか?

「常陸国風土記」には谷田(やとだ)という開拓された地がある。

関東地方では、谷(やつ)とよび、

夜刀神の夜刀(やと)の事を意味する。

常陸国(現:茨城県)に住んでいた豪族(麻多智=ヤハズノマタチ)
が、葦の蔓延る渓谷の原野を切り拓いて新田を造営したという。

継体天皇の時代、そこには、蛇体で頭に角を生やした神の夜刀神がおり、
その姿をみると一族が滅んでしまうといわれていた。


麻多智は、蛇の姿をした夜刀神を奥山へ押し込め、

人の地(田)と神の地(山)を区分するために、その境界の杖を置いた。

社を建て神として夜刀神を祀り、自らの神を受け入れてもらうように祝ったという。

しかし、孝徳天皇の時代、夜刀神の棲む谷の池に堤を築こうとするが、
夜刀神が集まり、いつまでもそこに居続けるので、従わないのはどんな神か?と、
家臣に殺すよう命じる。

そのため、夜刀神は逃げ去り、そこにはなぜか椎の木だけが残り、
泉が湧いていたのでその池を「椎井の池」とよんだ。

この話について、
「日本とは何か」の著者、細野善彦氏の縄文についての対談の中で、

「この官人の開発姿勢は、
人間の自然に対する関わり方が大きく変化したことを物語っている。

これまでの歴史家は官人の姿こそ文明の担い手のあり方を示しており、
未開から文明へ社会を発展させる進歩の現れだと評価してきた。

しかし、この官人のように魚や蛇などを殺すという姿勢で
自然に立ち向かいはじめたことは、文明による自然の本格的な
破壊の始まりということもできます。」


人間の恐れから断ちきることで始まった破壊。

縄文には恐れがなかったとも言える。

 

 

すべてレプリカです。

 

 



ハイヌウェレ神話の土偶

 

 

 

『世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、 
殺された神の死体から作物が生まれたとするものである。


この形の神話は、東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に広く分布しており、
芋類を栽培して主食としていた民族である。 

 



日本神話のオオゲツヒメ、保食神(うけもち)など。
 スサノオとオオゲツヒメのハイヌウェレ神話がある。』

 

土偶は、病気や障害から解放するために、土偶を人間のように象り、
痛みや病気のある部分を壊して埋めていた。
 
身代わりになってもらうためで、シャーマニズムな治療方法。

土偶に息を吹き込むようにして、自身のエーテル体と土偶をつなげ、
 悪い気を土偶に宿すようなやり方。→土偶のヒントから埴輪へ。


壊してしまえば、悪いものとは繋がらなくなる。

 

縄文の女神は、大英博物館へも行っていた。

壊され方が、頭、胴体、足ということで、 
ナグサトベのハイヌウェレ伝承と同じ。

 

 

この縄文ビーナスには頭や胴体(腰まわり)に穴があいており、
説明(舟形歴史民俗資料館)によれば、

鳥の羽(おそらく雉)をさして祈祷したと考えられるとの事。

 



ということは、神武東征で殺されたと伝わるナグサトベは、
頭、胴体、足を別々の場所に葬られた伝承をもつのだから、

神武とは違う民族だった。

 

※左端に小さく日本列島。(プレート重なるスンダランドあたりは地震も多い)

東北地方の数多くの縄文土器や土偶が、古代にも大量に見つかっているため
(現代よりもっと地上にあふれていたと想像されます)
それに対する豊饒の女神を崇拝する意味もあって、ハイヌウェレなわけです。
 
例えば、鏃が大量に土砂から見つかった鎌倉時代の話もありますね。

 大雨で土砂災害があった時に、天からガラスの雨が降ってきた

という話があった。


 古代の人たちにも道具を作ることができたとは、当時、想像もしていなかったので、
天(神)がもたらした神器だと(大雨がもたらした)考えられていた。

 


 
これは本物!

巨大な水甕。


小さいけれど、国宝の縄文ビーナス(レプリカ)他、

実物の巨大土器がある資料館は、とても充実しています。

 

ちなみに、

舟形の地名は、鮒方に由来し、鮒の形をした石が出たことから由来すると。
フナの形の石~??


この先、北上すると瀬見温泉になります。
弁慶と義経伝承ですね。

 

ということで、妄想な縄文はおしまい。