前回の続きです。

 

 


唐桑半島付近に上陸した熊野が、
一関の内陸へ向かい、室根山に熊野権現を祀ったと伝わります。

その内陸にあたる蝦夷征伐で朝廷がやってきたところ、
達谷窟堂は「大すみの長者」とよばれた金をもつ
有力な豪族がいたといった伝説があります。

 



いや~この「大すみ」が「大隅」ってことはないよね?
昔話だからどこまで真実かわからないけれど。
鹿児島にある大隅国:大塚古墳群。

厳美町に長者の伝説があり、長者の娘は五串(いつくし=斎し)の滝に身を投じる。
これが五つの団子=串、櫛で京都の下加茂神社の井戸(湧水)に関係すると思ったことを
以前書いてました。(→瀬織津姫を祀る)

達谷窟堂の近くに「姫待不動堂」があり、
近くに小さいけれど滝があります。


 

その滝の向いに大きな岩があり、
この名前が「かつら石」だった。

 

 


 

岩名の由来は、娘たちの髪を伝えているものなのですが、
これが、葛(かずら)の葛城だとしたら?

あるいは、国栖(くず)の葛。

 

 

かつら石の前にある姫待滝に向かっている石碑たち。

背中が寂しい・・・

 

 

 

葛城襲津彦が登場

 

全然、みえていなかったボスが登場。

葛城氏といえば、以前から書いてました。これ。

 

 

葛城襲津彦が被葬者とされる石棺から
出土した埴輪群に 家型、楯や矢などを入れる箱、
珍しい形象埴輪がみつかりました。

 

 

直弧紋という複雑な紋様。

 

「奈良県葛城郡」で発見された鏡。

これらの特徴を用いる豪族が、葛城氏と考えられます。

 

直弧紋の鏡

 

この直弧紋が九州にもあり、

継体天皇のお墓にもありました。

 

さて、その葛城氏がいた葛城山に

「鴨山口神社」という鴨家がいました。

御祭神の大山祇神は山の神とされています。

 



これは葛城山の入り口に鎮座し当時の住民が重要な作物である稲作造りに
必要な雨・風を神に願う気持ちが山の入口にそれを
治める神として奉られたものと言われます。


葛城氏は東北に痕跡を残している事で、
武内宿禰の子と言われます。

福島県郡山の采女は、葛城王に嫁いだ女性。
なぜ、福島?


福島県には都々古別神社が数社あり、
「アジスキタカヒコネ」だから鴨家では?!

熊襲と同じ「襲」を用いる葛城襲津彦なのですが、
熊襲、アジスキタカヒコネとの関連・・・?凝視


漢字の由来では、熊襲は荒々しい強い熊のようだったので、
それを熊襲としたと聞きます。


同じように「そつひこ」という人も同じようにみられた為、
熊襲と同じ襲津彦と名付けられたのかもしれません。

 

アジスキさんを祀るのは、

鴨家発祥の高鴨神社に、全員集合。

 


『百済紀』というのがあります。
その中に襲津彦の記録があるとされ、
「沙至比跪」と書かれた人がソツヒコと同音。

百済を治めた最初の倭人

とも言われているのです。
葛城氏の娘たちは、代々、天皇家の皇室になっています。

仁徳天皇は妻を九州の日向から迎えているという話があり、
仁徳天皇の妃は、髪長媛という、
名前がはっきりしていない・・・
長い髪ってそのまんまですけど、

髪は櫛・・・

 

その意味とは、女性との婚姻関係を結んでいたのは
九州の人であったという事が想像されます。

大隅古墳(鹿児島県)の被葬者が女性もいて、
九州の古墳は女性の被葬者(夫婦)が多いのです。

有名なのは、宮崎県の都萬神社(つまじんじゃ)
コノハナサクヤヒメを祀りますが、
男狭穂塚·女狭穂塚のことがある。

 


 

コノハナさんは在地の隼人の娘だった説があり、
渡来人の男性と結婚したとも。

葛城氏がいなくなってくると(王位継承に巻き込まれて)
末裔は東北へ逃れ鴨家となり?or関わり、

日本海ではヤタガラス伝承となった羽黒の「鴨建角身命」

として祀られているのだと思います。

 

※下駄を奉納する「鴨建角身命」の社(出羽三山)

なぜなら、その鴨建角身命の娘が「玉依姫」とあるので、
唐桑半島の御崎神社に勧請した宮崎の日之御崎神社が
玉依姫を祀っていましたので、繋がっています。

 

それから、山形県南陽市の熊野大社。

 


出雲の方の熊野?

 

葛城氏の祖はアジスキタカヒコネ?

 

さて、葛城氏たちは太平洋の方か、

日本海から会津へ向かった、どちらかしかわからないですが、

スクナヒコがよく繋がるのならば、茨城県(常陸)経由かもしれません。

以前に行った天栄村の龍ヶ塚古墳があります。

 

 


阿蘇山にいた「健磐龍命:たけいわたつのみこと」という人がいます。
天栄村の前方後円墳は、「建磐主命(たていわぬしのみこと)と言い、
似ているのです。

 



しかし、阿蘇にいた健磐龍命はかなり古く、
健磐龍命(神皇紀BC21)、阿蘇霧島第二王朝が外寇を受けた際、
九州に指揮官として赴くとあるので、わかりません。

 



また、この古墳の上にあるのが淡島神の石祠で、
それはスクナヒコ命です。

 

 

龍ヶ塚古墳には、千年以上も前に発見された

「丈龍私印(はせたつしいん)」があります。

茨城県大洗にいた大国主の元へスクナヒコ命がやってくる。
それは航海してきた葛城氏や安曇氏のことだったのかもしれない。

茨城県大洗(ここにスクナヒコと大物主の伝説がある)

 



郡山に唯一、主神として祀る「アジスキタカヒコネ命」
の都々古別神社があります。

白河の方は相殿がヤマトタケル。

 

 

東北では福島だけ。

 

 



こんなに寂しいヤマトタケルに会ったのはここが初めてだ。↓

 



この裏山にはイワクラがあります。

(先ほどリンクした)

アジスキタカヒコネは奈良県葛上郡の高鴨神社に鎮座されています。

「延喜式」に「大和」葛上郡一七座の一で
高鴨阿治須岐宅彦根命(たかがもあずすきたかひこねのみこと)神社、

四座とあります。

※昧鋤高彦根神とも書く(鋤の意味から農業・タタラの象徴とも)
妹は、シタテルヒメ。

また、郡山には複数の都々古別神社神社があります。

 


 

八槻都々古別神社の「八槻」について、
「従わなかった8人の土蜘蛛がおり」
ヤマトタケルにより征伐された伝説があります。

「七発の矢は雷のごとく鳴り、エミシを退け八発の矢はツチグモを射ぬき倒す」

その地に槻の木が生えたという言い伝えです。
おそらく、木を植えるイソタケルのことだと思うので、

アジスキタカヒコネが出雲と関わりがあることが、ここで繋がります。

 

つる性植物「葛」=土蜘蛛と考えると、

鴨家は葛城氏と関わりをもっており、
出雲のアジスキタカヒコネと共にいた人達だった為、

祖神として土蜘蛛は、アジスキタカヒコネを祀っていたのだと思います。

 

そのような場所にヤマトタケルが重なるのは、

熊襲征伐のことが続いているからです。

 

ちなみに、
槻はケヤキのことで、神が宿る木といわれ神聖な木。
斎槻は「いつき」といって五十槻と書く。

仙台のシンボル、ケヤキ並木なのは偶然?

 

 

では、どのタイミングで葛城王朝は途絶えたのでしょうか?

やっぱ、継体天皇。→翡翠の交易をしていたと思う。

オホド(後の継体天皇)が日本海から連れてこられ、
武烈天皇の後を継いだか?・・・

系譜をみると、そこから「蘇我氏」が皇室に嫁いでいるという。
ということは、継体天皇から葛城王朝が途絶え、
蘇我氏に政権が変わった事なのだと思います。

 

蘇我氏の血をひかない皇子というのは、

葛城氏のこと・・・?

 


 

なので、蘇我氏が政権をとったから、

同時に葛城氏と共にいた物部氏も排除された、
と見るのが自然でしょう。

 

日高見国を取り戻す

 


ニニギの降臨地として置かれた新たな日高見国は、
石巻で一旦落ち着き、丸子氏(部ともいう)たち
物部氏筆頭に収めた所が、石巻だったと思います。

妄想:零羊崎神社(真野の方)

なぜなら、牡鹿半島(気仙沼付近)の道嶋氏が
千葉からきていたからです。※道嶋=丸子


千葉県にある真賀多神社。
有名な日月神事の神社。
多(オオ)氏と関わりがあったのです。


多一族の伊都許利命が」
就任してたとの記録が先代旧事本紀に記載されているため。

 

このことが、日高見国が石巻である、ということに

関連ありそうなのですが、まだみえてきません。

多氏は土蜘蛛(先住の国栖氏)を討伐したという話が
常陸国風土記に残されており、
最北の多氏は、宮城県三本木と言われます。

 

多氏と土蜘蛛(国栖氏説)がどこまで対立していたかは不明です。

※オオは朝鮮語でタカというそうだ。高木神?

ニニギの降臨地の伝わる所で、
最も重要だったと思うのが、前回も書いてました
石巻の上品山にある久集比奈で、熊野三所権現と称したことが
由縁にありました。
上品山(じょうぽん)という不思議な名前の由来は
「浄峯権現社」と言い、浄化する峯なのですね。

それは、彦火火出見命で、合祀は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)です。
女狭穂塚のモデルとされたら、
熊襲か隼人の在地の女性が東北で細々と血縁を迎えていたことを物語る。
※コノハナさんは隼人の娘説→渡来人の男性と結婚

ただし、日高見神社は、ヤマトタケルと武内宿禰で、

葛城氏は武内宿禰の子というので、葛城氏がアジさん崇拝だとしたら、

なんで同族が征服するの?と混乱しますね。

 

とりあえず、征服した地に武内宿禰を刻みたい、という事を、

明治政府も悩んだと思うが・・・どうなんだろうねえ。


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阿部氏は九州の阿蘇=アペであったとすれば、
一関平泉を君臨していたことも繋がります。

唐桑半島から内陸へ向かえば、すぐ一関です。

後に平泉ができたのは、九州のことがあったわけですね。
なぜなら、阿部宗任は源氏に討伐された後、
九州へ(福岡県宗像市)配流され、お墓があります。

 



そして、東北の藤原氏は安部氏と婚姻関係を結ぶ。

源頼朝が恐れていた藤原秀衡は、後を継ぐのは

泰衡とは異母兄弟の国衡であることを望んでいたと思う。
その国衡は、白龍となり崩れる「くじら」になった。
対し、泰衡は錦の衣を着せられ葬られたと。(秋田にて)

顕かに国衡がまつろわぬ民の系譜であったことが見えるわけです。

なぜ、蔵王町麓のあそこに古墳があるかといえば、
国衡は「山形へのがれるつもりだった」

蜂子皇子がいた出羽の国へ。

その分岐点は、さえの神とされ、
あこや姫や道祖神、藤原実方、金売吉次など
いろいろな鴨・加茂家がつながってくるのです。


そういう意味では、一番大事な時に、
藤原秀衡が病気で亡くなってしまったことがとても残念なのだ。ショボーン

東北は治外法権だったので、

天皇家の末裔、子孫、皇族たちが隠居する所でもありました。

タタラ場も非常に多いし資源も豊富。


西洋人がみると平泉はアジールとして見ている風がある。
今でいう口シアとでも思っていたのだろうか?

確かに中世、世界で一番「金(鉱脈)」を持っていたのは、
阿部氏や伝説になった長者たちだろう。

そのように影の歴史、逃れた皇族、
南朝もそうですが東北にはたくさん埋もれた歴史があります。

しかし、少しづつ顕かになっていく日をずっと待っていたと、

蝦夷はそう言いたいでしょう。

はるか長い時を経て、長い航海の旅路のすえ、
寒かったであろう東北の風は身にしみたと思います。

そゆことで、鯨からいろいろ教えてもらったことは、
まつろわぬ民と言われた蝦夷は、九州の熊襲なども含まれる。
対立したかもしれないが、最北の終焉地として

まつろわぬ民が密かに暮らしていたことを、思うことが大事でしょう。

 


「大和王権とは違う道をたどることになった」人たち。
九州の日の巫女を偲ぶ東北なのです。


「歴史は、ひとつの所で動いているのではない」
 

葛城襲津彦は、怖いイメージがあったのですが、

よき理解者といった感じです。

やっぱり熊襲なのかな・・・

日向との関係まではわかりませんので、

九州の古代史ファンの方々にも東北を繋いでくれることを願っております。おねがい


長い探訪でした。

ミッション終了。ヒヨコカエル