久しぶりに訪れました。

 

 

 

※大島の方

 

この日は天気がよく、海がきれいでした~キラキラ

 


唐桑半島へは名取に熊野三社を勧請した名取老女を

調べている研究会のメンバーと2017年6月に訪れていた所です。
紀州の熊野から唐桑半島へ数か月かけて上陸した事が室根神社縁起にあり、
熊野信仰と鯨信仰は深い関係にあります。

 

 

 

駐車場の奥に続く森を歩きます。

 

 

 

御崎灯台

 

 

 

 

 

 

灯台の手前に鯨塚があります。

 

 



鯨は御崎神社の御使いの霊魚と言われ、
唐桑半島の先にある御崎神社の森には鯨塚がいくつか祀られており、
そのひとつは神代文字(阿波文字)で書かれた鯨塚です。


※阿波文字で書かれた「クエラツカ」鯨塚のこと。(離れた所にあります)

 


 

由来は、「1873年前年から続いた異常気象で
農作物の被害を受け、海の漁も悪く、村民は食べるもの困り困窮していた。
そんな時、突然、湾の中に手負となった大鯨が迷い込んできた。
漁師が捕獲するのに苦戦し日が暮れるまで続いたという。
飢饉の年を救った鯨とし、御崎の宮の境内に祀られた。」

 



和歌山県新宮市へ行った時に、駅に鯨の歓迎がありました。
紀州に上陸した徐福が捕鯨技術を伝えたからとも伝わります。
「三輪崎の鯨踊り」というのがあり、鯨をとる様子を踊りに仕立てたもので、
約300年前、当時この地の領主水野氏が京都の公家に
鯨の肉を献上した際に鯨おどりとして整えたといわれています。


また「唐桑阿部氏」といった在地の豪族もおり、
阿部氏は内陸の厳美渓の近く一関骨寺村にも来ていました。
(唐桑阿部氏ゆかりの武士が落命した)
実際、御崎供養という石碑があります。
鯨と熊野の繋がりは、航海してきた海の歴史のひとつです。

 

※島崎藤村の石碑

 

 

 

 

<御崎神社>
 

神社に戻ります。

前回いろいろ書いていたので、簡潔に。

 

御崎神社(おさきじんじゃ)

 

 



延喜式神名帳:

計仙麻大島神社(名神大) 
陸奥国 桃生郡鎮座 。
大海津見神 (配祀)素戔嗚尊
 (合祀)日本武尊。

御崎の御は、もとは尾だったが、良い漢字に改めるために御に変えた。

 

 

 

 

 

お元気そうでなにより。

大黒さん。

 

 

 

陰陽堂


 

読めなくなってました・・・

 



『唐桑半島は中央の勢力が及ばず、
前九年の役では、安部一族が来たり往し、
平泉藤原氏時代には、一族の故を以て安泰であった。


前九年の役に始まる1050年前後は、
俘囚長安部の勢力が拡大するに従い、
気仙郡金氏の勢力は本拠地、長部や高田、
横田方面に引き下がり、代わりに安部の氏族たちが
唐桑半島を領有するようになった。

 

2月に書いていたこと。

 

 

それで、

前回も書いていましたが、
釜石の尾崎神社がヤマトタケルであるのは、
熊襲(くまそ)の終焉地ともいえ、宮崎県の日之御崎神社は、
西日本一帯に祀られる日之御崎がスサノオを祀ることから、
熊野信者が唐桑半島へ上陸したことと繋がるのです。

九州から逃れた熊襲は在地の阿部氏と関係をもち、
内陸の一関の方へ範囲を広め、
後の奥州藤原氏と鉱山資源を豊富にもつ大地主となり、
大陸と交易を活発に行う新たな奥六郡を形成します。

唐桑半島に紀州熊野から大勢の人たちを引き連れて、
5か月かかって上陸したことが室根山神社縁起に書かれています。


今から1300年ほど前のこととされますが、
その後から数多くの中世の武将たちが敬う室根山となっているため、
この道を繋いできたのは、はるか昔、九州熊襲の人たちだったのかもしれません。

さて、この話をふまえて、
もう少し鯨について深掘り。

まさかね、葛城氏と鴨家に繋がるとは。
最後の最後に、鯨が伝えてくれたこと。

2月の記事「十の世界~」で書いてある通り、
石巻の日高見神社のヤマトタケルと武内宿禰が、
この鯨に繋がってきたのです。


それは、鯨ではなく「櫛」であり、

葛城氏です。


つづいて書きます。