宿泊したホテルの近くに、滝があるので行ってみました。
途中は採石場があり林道を進むとあります。

大槌町と山田町との境にある鯨山(610m)

 

 


浪板不動滝は、岩手県大槌町中心部の北側に聳える鯨山(610m)に
源を発する波板川に懸かる落差約15mの滝。

鯨山トレッキングにここは良さそう。
古くから鯨山神社が祀られていたそうです。

 

 

 

 

 


鯨山の由来

 

この地には昔、流行病があったとき、
大槌の浜に大鯨が打ち上げられ、村人がこぞってその肉を食べたところ、
大変快方に向かった。

通りがかった旅人もその肉をもらい、
旅先の村で、流行病の人に鯨肉を分け与えたところ治ったという。

どこで求めたのか、と聞かれ、高くて目立つ山があり、
その近くの浜に鯨が打ち上げられているはずと答えた。
高い山は鯨山と呼ばれるようになったという。

 

 


 

岩盤がすごく、隆起した岩がむき出しになっている所です。
修験者が好むような所ですな。

 



集まっている石碑の数で信仰の深さがみえます。


鉱山が豊富なのでけっこう広い採石場があった。
日本の矛盾している光景。

 



地球の創世を祈るのに、すぐ隣で破壊している。
別に企業が悪いといっているのではなく、
その矛盾の中で生きていることを実感するだけだ。

 

 



ところで、鯨信仰が深い地なのですが、
鯨文化を伝えたひとつに熊野信仰があります。

 

鯨については、以前、唐桑半島で書いていたので詳細は割愛しますが、
紀州に上陸した徐福説より鯨漁を広めた人だとも言われる。
と、いっても江戸時代になって捕鯨が盛んになっているので、
かなり後になって生活に鯨が入ってきたようです。

その鯨は多く西日本にも見られ、
東北のこの地に伝播している。

 

 

 

もうひとつ、鯨の由来から
久慈市の地名より「くびれた地形」崩れるから、
くじらになった説も。

 

 



由来も唐桑半島の山田町の鯨山がよく似ており、
このあたりも鯨を食べないという。

昔、中学生まで給食に鯨の肉が出てました。
ミートボール風に味付けされていて、美味しかったな~。

今となっては不思議な気もします。

 

ペリーが来航した開港目的に、鯨の捕鯨がありました。

しかし、これも闇がある。

 

捕鯨を目的に日本に開国を迫ったアメリカは、

さらに日本から金を持ち出すことで莫大な価値に変換し、

それを資金源に南北戦争を戦ったという話。

アラスカを買ったのも、日本からの得たお金だった、とも。

 

明治維新のアメリカをみると、今の世界情勢が見えてくるものです。

 

ところで、黒船来航の時に「内海防備最前線」にあったのは、

埼玉県の忍、彦根、会津だった。

特に川越藩は、江戸に近いため政治情報の収集、分析にあたっていた。

その川越藩が、江戸城の要としたことは以前書いてました。

 

けっこう、戦っているのかもね。

見えないけれど。


ということなので、

アメリカの鯨を使った公約とは、

日本の植民地化を推し進める目的と、

戦争の資金集めだったこと。

 

そこは、忘れてはならない、と鯨が申す。

 

鯨山に乗った鯨は山から降りては来ないのだろうか・・・

クジラ降臨。。。

 

さて、そんな隆起した岩盤が目立つリアス式海岸ならではの、

海を彷彿させる修験の場。

 

遠くに鳥居がみえると、鯨山神社に到着。

車を停めて歩いて5分くらいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

神社の裏が不動滝

 

 

神社本殿の跡地があったようです。

採石場の近くまで、昔は津波がきたと言われます。

 

 

 


最後に書きたい事に繋がるので、ちょっと歴史を。

 

ここは、「陸奥国閉伊郡(へいぐん)」だったので、

閉伊です。


ネットで見つけた情報ですが、
研究者が閉伊人について調べている報告書があります。
難しいのであまり覚えてないんだけど・・・
日本の各地の人の平均より、身長、体格など肩幅とか、
広く高いのです。

 

どうやら、閉伊人は、他と違うみたいだ。
岩手県の男性の平均身長は、高いらしい。

 

勝手な妄想ですが、以前から思っていたこと。

唐桑半島から北上する海は、リアス式海岸。

これ、ノルウェーのフィヨルド文化が似ている。

 

スカンジナビアも同様に鯨漁をやっていた。

近いと思うんだよね~~。

 

細かいことは、後で書きます。


この閉伊まで、坂上田村麻呂が来ていたという話も驚きだ。
山奥に逃れた後を追っていたから、後に遠閉伊村に文室綿麻呂を置いたという。

閉伊氏の本姓は源氏。
ルーツは、宇多天皇系譜。
佐々木氏の末裔。

その佐々木氏は、近江なので滋賀県を拠点としていた為、
沙沙貴神社(ささきじんじゃ)というのがあります。


スクナヒコなんですね~。

「古代に沙沙貴山君が大彦命を合わせて祀り」
と、あるので、大彦命が関わっている。
※大彦命(四道将軍:日本海にいた)

ずっと、この系譜の足跡をたどっているような事です。

 



北陸にいた大彦命が、太平洋側にも痕跡がある理由は、
同じ四道将軍で東海に派遣された武渟川別(たけぬなかわわけ)
の存在があるからです。

武渟川別は大彦命の子だから、子が東海の近江にいたため、
開拓に、父である大彦命と組んで、東北まで勢力を伸ばしたのです。

 

なので、東北の古代史をたどると、滋賀県(近江)がよく繋がる。

だから~沙沙貴神社には、
大彦命(大毘古神(おおひこのかみ)と、
仁徳天皇(おおさきのすめらみこと)
宇多天皇(うだのすめらみこと)を祀っているのです。


佐々木氏は、大彦命の系譜なのかもしれない。
後に茨城へいったんですね。

スクナヒコは茨城(常陸)へ上陸してますから、
小さい船でいったんだろうな~。→大洗磯崎神社

 

 

 



そうすると、閉伊族とはなんだろう?
ネットの地名由来に、
閉伊の奥の意味で呼んだ汎称「遠閉伊」の野原という意味があった。

閉伊と遠野が繋がっていた?!

かなり前に遠野の羽黒岩へ地元の方に案内して頂き、
行ったのですが、そこは、
羽黒窟といわれ蝦夷の族長、岩武丸の拠点であったという。
※大武丸のこと(族長の総称)

 

※遠野の羽黒岩

 

やっぱ、羽黒講は蝦夷の鎮魂のためにありますよね。

 



閉伊にたくさんの蝦夷が集まっていたので、文室綿麻呂は、
811年陸奥、出羽両国合せての大兵2万6千人余を以て
閉伊村を襲ったという。


それでも蝦夷の数は多かったらしく、
朝廷では軍を動員したとも言われます。

 

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この滝は朝の散歩によりました。

この後、仙台へ帰るのですが、
釜石で、主人が行ってみたい神社があるというので

行ってみたところが、唐桑半島に繋がっていた。

 

こんなに長くブログを書いていても、

大体が忘れています・・・。

(覚えるつもりで書いてはないけど)

 

でも、後で必ず現地へいくことになり、

もっと明確になることが多々あるのです。

 

それに気づかせているのは、夫の方であった。

ニヤニヤ ←他人事な笑み


そろそろ終盤、

これまた深い歴史考察になります。