「斎」が続いていますが
いつき(斎)が由来する「斎川」のそばに、
坂上田村麻呂を祀る「田村神社」があることは、
あまり知られていないと思います。

タタラ場があったのか、悪路王伝説もあり、
退治したマロが武具を斎川で洗ったという伝説があります。

ところで、京都では、
あんまり坂上のサの字も、田村麻呂のマの字もなさそうだが・・・

 

 

 


東北では、マロ呼ばわりだがな。(自分だけな)
とかく、いじり倒しても何も言わない優しい人(たぶん)てへぺろ

でも、そんなマロについて自由に書かせてもらえている
事を有難いと思っています。

東北では至るところに坂上田村麻呂の名を残しているけれど、
東北の地でどう思って過ごしていたのだろう・・・。

 



アテルイやマロのことをいつも気にしていたマロだけれど、
地元からはとても愛されていたアテルイだったので、
マロもそれで良かったと思っているかもしれない。

行脚しながら、そんな蝦夷との見えない談話を
マロも聞いているのだろう。

 

 

霊力が強い人の葬り方

 

ところで、マロの埋葬の言い伝えを聞くと、
栄存法印と同じだ、と思う。

マロの墓といわれている地名が「栗栖野(くりすの)」という。
※栗栖、後で記します。

山城国なので、秦氏と深い霊的結びつきはあります。


坂上家は百済からきた渡来人ですが、
桓武天皇の母だったかな、百済人で渡来人として天皇家に入ったため、
坂上家も出世コースをめざせた。
※父の刈田麻呂を桓武天皇が気に入っていたそうだ。

ここは、江戸時代頃に地元の方が「朝日神社」
として祀っているので、炭鉱があった場所に由来します。

「弘仁2年(811)5月23日、
坂上田村麻呂は粟田の別邸でその生涯を閉じます。
54歳でした。

その時、嵯峨天皇は哀んで一日政務をとらず、
田村麻呂をたたえる漢詩を作って、
従二位を贈ったと伝わります。

同月27日、田村麻呂は、
「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村」に葬られました。
勅命により田村麻呂は甲冑武器を帯びた立姿で葬られたといいます。」


この「立ったまま埋葬された」言い伝えが、
実際のところわからないけれど、
このような埋葬は、非常に強い霊力をもつ人は、
災いを起すと言われていたので、自らの霊力を封印するために
通常とは違う葬り方をします。

あるいは、その霊力を使って守護してもらうために、
あえて都を守らせる葬り方をした、という言い伝えになっているものです。

石巻の牧山に鎮座する栄存法印も同様。


言い伝えでは、栄存法印は非常に強い霊能者だったので、
「逆さに葬るように」との遺言があったという。

しかし、逆さにして葬るのはなかなかできないことで、
結局、そのまま葬ったところ、後に大災害が起きたと伝わります。

確かに、あの場所は非常に大きな打撃を受けている所。

悪い所ではなく「強すぎる」所だから、緩和せねばならない。

 

でも、そんな栄存法印を祀る神社へ行った時に、

糸を引いたようなとても優しい雨が降ったのです。


また、一緒に参拝した人がとても不思議な体験をし、

仕事に関わることだったのですが、

とても深い愛のある出来事だったのです。


その体験から、栄存さんは優しい方だったと信じています。


ということなので、歴史に残す将軍の死は、とても孤独なのです。

 

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斎川の田村神社の由縁によれば

 



「坂上田村麻呂の先祖は阿知使主といい
後漢の霊帝の子孫である。
慶神天皇(応神天皇)の御代部落を率いて日本に帰化した家は
代々、武を尚んだ。
鷹を飼いならし又馬の相を見分けるのを家業として子孫に伝えた」


マロは背が高く体格が良い人と伝わる。

(外国人説もあるよ~)指差し

 

 

甲冑堂について

 

さて、ここに始めて来たのは、介護中の時、

2016年11月。


最初は知らなかったのでマロ目的ではなく
戦う嫁の姿をみたかったから・・・笑



ちょうどこの頃、私は義理の両親の介護中で大変な時だった。

いつだって嫁はこのような立場に置かれるが、
これが強い女戦士に育っていくことを、
1000年前から言われているわけで。。。


が、結局、守られるのは、後世残されたヒーローなんだな。オエー

 

※甲冑堂

その甲冑堂に、なぜか、マロが鎮座されていることを
知った時は、なるほど、と思う。

主婦の味方か!ニヤニヤ

ここは4号線だから、奥州街道(かつての山道?)
ということなので、マロが通った説はあり得ます。

 



甲冑堂のおさらいを。

 



元は、福島県飯坂町の医王寺にあります。

(一族が逃れて来たらしい)

源平合戦の頃、源義経の家臣として平泉時代から仕えていた
大鳥城主任佐藤庄司基治の息子継信・忠信は、
1184年四国八島の戦い(屋島)において、兄継信は
源義経の身代わりとなって、平能登守教経の矢を受けて
壮烈な戦死をとげた。

 



弟忠信は、義経の敵と戦い主人一行を落ちのびさせたあと、
京都の堀川の館に潜んでいたところ、1186年200名の
敵に襲われた。

 

 

 

 

 



これまでと「奥州武士の最後を見よ」とばかりに
腹をかき切って壮烈な最後をとげた。

義経一行は、世を忍ぶ山伏姿で奥州にたどりついた。
兄弟ふたりの死を知った母親の悲しみは、計り知れなかった。

兄弟ふたりの嫁は、自分たちの悲しみを押さえて
母を慰めたが嘆きは大きかった。

最後に考えついたのが形見の甲冑を着て、
「継信・忠信ただいま、凱旋致しました」と母にふたりの子の姿を見せて
喜ばせたという。

 

※医王寺の佐藤継信の妻(若桜)・忠信の妻(楓)

奥州征伐のために大鳥城におれなくなった一族は、
宮城・山形に隠れ住んでいたが
菩提を弔うため大鳥城・医王寺に近くのこの地に甲冑堂を作り、
木造にてふたりを刻み後世に考心を伝えようとした。



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佐藤庄司基治の子は、複数あり、長男が病気がちだったので、
弟らが義経に従うことになったそうだ。

しかし、父の藤庄司基治は生きていた説があり、
角田にもそのような痕跡(家臣)の話があったりする。

これらの像は、宮城県柴田町出身の小室達(とおる 1899-1953)作であり、
伊達政宗像の彫刻をした人だそうです!

 

 

斎川の佐藤継信の妻(若桜)・忠信の妻(楓)

最初は、二人とも同じ弓矢を持たせていたそうですが、
全く同じものを作るのは良くないという事で、
もう一人は槍を持たせて作り、立つ形と座る形をとったそうです。

こちらのお堂は、社務所に声をかけて鍵を開いてもらわないと、
拝観できません。

宮司さんはご高齢の方ですが、すごい記憶力で。
詳しく歴史の話を聞くことができました。
おまけに資料館も拝観できます。

蔵の資料館がすごいんですね~。
虫が。
孫太郎虫絶望

 

900年も前から!漢方として薬になってたよ。

https://www.jataff.or.jp/konchu/mushi/mushi109.htm

 

 



ちょっと気持悪くなった。笑
この伝説も義経と皆鶴姫と似ている。

 

ところで、信夫佐藤兄弟の母(父基治の妻)の名を
乙和御膳といい、「おとは」なんですけど、音羽とも書くのです。

平泉に音羽山があり、三角に結ばれる束稲山の一部であることがちょっと気になった。
平泉金鶏山の入口に、義経妻子の墓があります。

乙和御膳の父親は藤原清綱で、平泉を開いた初代清衡の息子。

初代清衡の母は安部氏で、勝利品といわれ敵の夫に嫁いだ話。

乙和御前の父親清綱は、亘理権十郎といい、平泉へ渡る。
後に、名を樋爪(比爪)「ひずめ」と名のる。

 

宇都宮にある樋爪五郎の墓


系譜・・・

藤原清衡(初代奥州藤原氏)
    ↓ 
藤原清綱(亘理権十郎)→他に兄弟が数人いる。(基衡、正衛・・・)
    ↓
子=樋爪俊衡、季衡、乙和子姫。

詳しいことは、後にしまして、
そんな甲冑堂に、坂上田村麻呂を祀る神社があります。
珍しいですね。

 



川が流れているところに、タタラ(山の方)があり、
その偵察に来ていた模様。

 



マロは、稲作に適した川や湧水のチェックはしていました。
汚染された水を使うわけにはいかず、
タタラを牛耳る安倍氏、物部氏の拠点探しもあります。

 

 

医王時の乙和についてはこちらを。

 

 

 

賊を倒した物語より

 

宮司さんの話より、すぐ隣の山は顔に赤く塗った賊が、
道行く人に乱暴していたのをマロが征伐してくれたので、
田村神社を祀ったそうです。


それが悪路王のことなのですが、
赤頭や丹砂を塗って化けた盗賊と伝わる。




この場所は、平泉への街道なので、産鉄族の場所であることは確かです。
そばにある川の名前が斎川なので、マロが武具を洗った川と伝わりますが、
斎という漢字から、禊(or洗礼)を行ったとも言われる。

 



松尾芭蕉もここを訪れ、
「馬牛沼の下、鐙越しという岩あり、この岩より下りて二町程右の方に
継信・忠信の妻の御影堂あり」と記している。

 



兄・継信は、藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経に随行したとある。
金売吉次も義経に随行した人。

ここは、金売吉次も、義経もきてますね~~・・・

 

 

 

度重なる火災でも何度も復興された田村神社なのです。

 

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さて、なぜ、ここにマロが必要だったのか。
単に賊を倒してくれたからだろうか?

源義経には、正妻の郷御前と妾の静御前がいる。

 


※肉筆画で描写された白拍子姿の静御前
(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃)

静御前もアマゾネスな感じで、甲冑を着て戦った美談があるのです。

これは作られた話ですが、甲冑堂のお嫁さんもそのような美談にしているのです。

田村神社の説明書きに、田村将軍が東征のついでに地元の妖魁を鈴鹿御前
の援助で討伐したので二人(お嫁さん)を祭祀した
。とある。


そう、「静御前」の存在。

 


寒川神社は、義経の死をいたみ静御前の舞をしている。

また、信夫佐藤氏は、西行がその一族である。
佐藤姓も東北地方に多い。

 



西行は佐藤義清といい、藤原秀郷の血統をもち、
西行の一家は、信夫佐藤氏と名乗り、藤原秀衡の郎党でした。


佐渡の藤原で佐藤になったという説もあり、
後に、相馬氏、佐竹氏に仕えるようになる。

ちなみに、弟の佐藤忠信の妻、初音は、相馬出身とも。

あこや姫がいた千歳山周辺の開拓にあたったのは、信夫佐藤氏でした。
西行は馬術に優れ、弓の名人でもあった武士でしたが、
突然、23歳頃に出家し何の宗派も属さず放浪の旅に出ます。

その時、藤原実方(あこや姫伝承)の墓参りにも来ている。
もちろん、松尾芭蕉も。(道がわからず到達はしていないが)

砂金採りの俵藤太は、宮城県金成の金売吉次の伝承にも関係する。
義経を案内した人。

静御前にしている理由は、中世に流行した『田村草子』などの物語を
模していると思います。

『鞍馬蓋寺縁起』など、賊を倒した伝説を、
ここ斎川にも、伝えているわけです。

平安時代、坂上田村麻呂は嵯峨天皇に鈴鹿峠の悪鬼を平定するよう命じられ、
たちまち悪鬼を平定した。
といった話は、東海道沿いに伝わるため、
奥州街道が東海道を繋いでいる道中に、マロの由縁を置いているわけです。

田村神社の由来の中に
「九世紀の始め、坂上田村麻呂の東征の際、
この地の斎川で斎戒沐浴した後、鈴鹿明神の助力を得、
村人を苦しめていた悪路王、赤頭、青頭などの鬼形のモノたちを退治した。
その徳を慕って、後に村人達が建てたのが、田村神社の始まりだという。」


詳しい所はわかりませんが、滋賀県に田村神社があり、
平泉藤原家の遠祖が、藤原秀郷とされる。(違う説もあるけれど)

 

※滋賀県田村神社

主祭神 - 坂上田村麻呂公、嵯峨天皇、倭姫命

秀郷は、栃木県出身とも滋賀県出身とも。
栃木県にも賊を倒した由来があり、藤原利仁(賊を倒した英雄)
の墓があるので、藤原秀郷の由来を繋ぐために「田村神社」
にしていることはあると思います。

細かく言えば、倭姫命は、
蝦夷の地に天照大神を置いています。

正確には、倭姫命、つまりヤマトタケルが征服した地にしています。

 

ちなみに、秋保にも静御前の伝説があり。

 

 

 

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福島へ向かう時は、いつもこの国道を通るので、
何度も通っている道でもあります。

甲冑堂からさらに南へいくと松尾芭蕉の歌にも登場した
大きな沼があります。

ここはいつも素通りしてしまうのですが「牛」の沼です。

マロの馬が沼で亡くなったという話から、
馬牛沼と呼ぶ。

 

※馬牛沼:しろいし旅カタログより
https://shiroishi.ne.jp/location/2548

 


沼の奥に見える山は、
曽良日記で「万ギ山」と書かれ「万牛山(まんぎやま)」だった。
と呼んでいたということは・・・マンギ=マギ=牧山と同じ!びっくり
石巻の牧山も元は「マギ」で馬に関係している由来があった。

馬が交易として必要だったため、
古来の石巻の津には、馬を運んでいました。

 

やはり、牧山にいた鬼巻女を倒してハイヌベレにしたのもマロに

なっているから、悪玉姫が斎川にもいた、という事だね。

 



ということで、まとめると、


賊を倒した物語から東海道、奥州街道の道が
蝦夷の最前線であった所だったので、
そこに大和朝廷の「武」を鎮座させている。

斎川という地名から、
卑弥呼なる太陽信仰の天照大神を置く必要があり、

征夷大将軍として蝦夷を征服した将軍に巫女を置く話が、

女性たちの信者に流行した。


その後、藤原秀郷流の奥州藤原氏が台等し、

源頼朝は、坂上田村麻呂と同じ征夷大将軍とし、

マロの道をたずね祀り、八幡信仰を置いていった。


平泉の奥州合戦もかつては蝦夷征伐で行き来した
将軍の道を義経の道として後世残すために
甲冑堂として残されたのだと思います。

 

 

頼朝は、義経や奥州藤原氏を賊として蝦夷のように

みていたと思うが、頼朝は信仰深い人だったので、

残酷性はみられない。

 

 

福島のマロ

 

 

さて、まだある。

次は、前からずっと気になっていた
「クルスorクリス」という言霊。

この栗栖(くりす)という地名は、
いったい何を伝えたいのだろうか・・・