また、しばらく過去記事をのせていきます。

前回書いていた一関の五串。
だんごのことです。

上賀茂神社にある泡=だんご。
だんごの発祥になっている所に、
瀬織津姫を祀っています。

おそらく、それと深い関係があると思う伝説をご紹介。

やはり水に関わるのだけど、
昔は、人柱があったので、
その供養のために語り部はあの世で成仏できるよう
幼い女性たちは結ばれる話にしています。

 

「重いと思うなかれ、

巫の記憶は長く傷を負っていることもあるだろう。

その背負ってきた重荷を、想いに乗せて、瀬に流せ」

 

 

 

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前回書いていた唐桑半島に上陸した御崎信仰は、
宮崎県の日向族にも関わると思うのですが、
一関の厳美渓の美しいこの場所へ移り住み、
密かに暮らしていたと思われます。

しかし、そこには姫伝説の痕跡が色濃く残り、
縄文、アイヌ、蝦夷という先住の聖地でもありました。

朝廷軍から遣わされた坂上田村麻呂は、
このあたりを拠点とし、水沢・花巻まで北上していきます。

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過去記事
2019年7月

 

一関探訪。
先に厳美渓にたちより、骨寺村~震災遺構~平泉へ。
最後に寄ったのが中尊寺でした。

『吾妻鏡』には、賊王悪路王ならびに赤頭等、塞を構ふるの岩屋也。
とあり、坂上将軍は、この窟の前に九間四面の精舎を建立し、
鞍馬寺を模して多聞天の像を安置し、西光寺と号して水田を附すと。

 



この話しは、源頼朝が平泉の地を訪れ帰途の時に、 西光寺について尋ねた時、
僧侶が、悪路王、赤頭が塞を構えたところである と話しをしている。
頼朝以前から坂上田村麻呂伝承が存在していたことになると。

悪路王は伝説に登場する人物ですが、複数います。

 



お団子を注文すると上にあるお店からロープで、かごが降りてきます。
みな、このお団子に夢中~。

 



この川は「磐井川」なのですが、栗駒山が源流。 岩手県側では須川岳という。

 

 

 

小松姫伝説

 

 

平泉藤原氏が全盛を極めた頃、現在の厳美町五串近辺に、
「大すみの長者」と 呼ばれる長者がいました。

彼は、奥州の金山で採れた金を京都へ運ぶため、年に一度京に上ります。

長者は、京ではいつも同じ宿に泊っており、
そこには小松姫と呼ばれる 可愛らしい娘がいました。

長者は我が娘同然に幼い姫を可愛がり、 いつか姫を奥州へ連れていくと約束しました。
しかし、年々姫は長者を恋い慕うようになり、
十七歳になった姫に奥州へ行く約束 をしつこく迫られた長者は、
その後、姫の前に姿を現さなくなりました。


姫は、長者に会いたい一心ではるばる奥州までやってきますが、 
心を鬼にして姫に会うまいと決めていた長者は姫に会おうとはしません。

悲嘆にくれた姫は
「恋しさにはるばる釆たるみちのくの五串の滝に身をばしづみん」
 という句を残し、
滝(現在の小松滝)に身を投じてしまいます。

その後、長者の家には次々と不幸なこと起こり、 
長者は姫の心を踏みにじった自分の行いを悔やみ、嘆き悲しみました。  

長者は、姫の魂を慰めるべく、松を植え、
それが現在長者滝のところにある 「思いの松」と伝えられています。

※一関市厳美町鴻の巣、宮田の伝説

 

 



都の姫と奥州の豪族の恋話、その逆のパターンも、たくさんあります。

同じ話は、名取の道祖神。
藤原実方の墓のそばですが、都から追って陸奥国へやってくる
あこや姫の伝説。
お相手は「金売吉次」説があり、とても興味深い。


なぜなら、金売吉次は、東北へ逃れた物部氏というのであり、

「金鉱脈を探して都から派遣されたスパイ的な意味をもつ」伝説でもあるから。


 

このような伝承は、
 ・人柱説
・龍神説
・異類婚

・金鉱脈を探るスパイ説→都市伝説扱い
 ・ガチの恋愛説→アニメになるパターン多し

すべて当てはまると思います・・・
ぜんぶか~い。

「五串」は、「いつくし」と読むのです。
「イチキシマ」が転じたのであれば、
宗像系の海民の女性たちが、迫害されていることも?

海民の派閥はすごそう・・・

イチキシマヒメを崇拝していたのは、秦氏ですから。

「五串」は、
厳美町の合併前の地名のひとつとのこと。

 


 

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ちなみに(前にも書きましたが)
京都下鴨神社へいった時の話で「みたらしだんごの由来」では、
『後醍醐天皇が参詣の際、御手洗池で水を掬おうとしたところ、  
最初に泡が1つ浮かび、しばらく経ってから4つの泡が立て続けに浮かんだそうです。

 それを人の五体に見立て、人形を模して作られたのが、 
みたらし団子だといわれています。』
井戸神(井ノ社)ですけど、そこに瀬織津姫を祀っています。

 

※ガラス館

 



さて、この近くに「伏見稲荷神社」があったので行ってみました。

イスやテーブルなどがあり、ここでくつろいでいた?人がいたのかな、 
と思うようなアットホーム感が。

 

 



由来はわかりません。
木々の合間にみえる田園がいいですね。

 



機織姫もだいたい、人柱にされます。
新羅系は白人が多いので、秦氏らは迫害を受けています。

 

 

 

達谷窟堂



その姫なり串(斎)なりの姫伝説がある側に
達谷窟堂があります。



一関インターを下りて厳美渓の方向へ進み、
道の駅(博物館あり)先の交差点を右折すると平泉へ行ける。

この道は比較的すいていてスムーズに平泉へ行けると思います。
途中に巨石があったりして面白い里道が続く。

厳美渓から10分くらい走ると達谷窟堂があります。


「延暦20年(801)、大将軍は窟(達谷窟)に篭る蝦夷を激戦の末に打ち破り、

悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。


 大将軍は、戦勝を毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を摸ねて、
九間四面の精舎を建て、108躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として達窟毘沙門堂
(別名をいわや窟堂)と名付けた。」

 


 
すごく簡略すると、悪路王といわれた人がいて、
あまり良い行をしないから坂上田村麻呂が征服した、といった話。

108体の毘沙門天を祀っているそうですが、
なぜそんなに数多くの毘沙門天を祀ったかは不明。

ここは、エミシ征伐の北方警備として置かれたといわれています。

 



達谷窟堂は、善光寺(長野県)のお戒壇巡りみたいに、
岩や石を母の胎内を現し、地下界から再び地上へ生まれ出る太陽を崇拝している
意味があるそうです。

暗黒の世界が死であり光は生。
その体験をすることができる岩なのだ。

なので、修験の方たちがこの岩に籠っていたそうです。

やはりここも天台宗の円珍というが891年頃に建立しました。
この方は和気氏で、母は佐伯氏で空海の姪にあたる。

天台宗の開祖である円仁は栃木県の壬生出身だから、
下野国からやってきた人たちが東北へ来た目的は金などの鉱石が影響していると感じます。

平泉の黄金があるように、ここの岩場にも金が隠されていたかもしれない、と思うのです。
参拝してみると何となく(行ったことはないけれど)吉野の金峯山寺に似ている感じです。
吉野の蔵王権現が祀られているのも岩のある所だったと思います。


役小角は金を交易としていたから、岩場に隠していたという説を想像してしまう。。。
または、金を祭祀としていたのでとても重要な場所だったとか。

このような岩や石を母の胎内とみたてるのは、
ミトラ信仰(古代ペルシア)が発端だとする説があるようです。

アーリア族はミロク(弥勒菩薩)を信仰しており、ミトラはマイトーヤともいう。
ミトラは「契約」という意味。
マイトーヤもミロクもインドでは手に水瓶を持っている。

 

※鎌倉時代の弥勒菩薩像

毘沙門天というと上杉謙信が浮かぶのですが、
聖山である須弥山の北方を守るのが多聞天。
多聞天は毘沙門天(サンスクリット語でヴァイシュラヴァナ)のこと。
平泉中尊寺は須弥山を創造していました。

鬼を寄せ付けない意味で仏教は邪悪なものをはねのけようとする。
では、この鬼は何か?というと、人ではなく人間がもっている「煩悩」なのだ。
鬼といわれた人たちを排除し自分だけの利益を考える欲と煩悩。

 



姫待不動堂と弁天池

 


 

ちなにみ髪を神事として使うものは、「船玉さま」です。
これも謎の神事で不思議です。

 

 

 

この時は、骨寺村へ行く前にたちよった厳美渓でした。

 

次は、宮城県の田村麻呂伝説を。