2019年4月のこと。
その年の3月に京都へいき、
もどってきてから山形の「鶴の恩返し」の地へ
行く流れになったのが、偶然とは思えず。

 



ここに来た時に「終焉地」という言葉がかすめた。

過去記事のまとめ。

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京都から飛んで山形県。

南相馬の阿波忌部から始まり、京都では秦氏三昧でした。

『讃岐男と阿波女』というのがありました。

 

 

香川は昔から米どころでしたが水が少ない地域だったと。

 吉野川の氾濫が頻繁にあり、阿波は洪水を受けていたけど、
 讃岐は吉野川は流れていない地域でした。

それで水利をめぐる争いなどがあり、洪水に悩まされた結果、
阿波は米をやめて藍染めをすることになったそうです。

阿波徳島では、田植え時、山一つ越えて讃岐の田に女性や農耕牛を貸し、 
米を得たりした。

また、藍の収穫時には讃岐香川から 出稼ぎの男が徳島にやってきた。

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 さて、京都旅から帰ってすぐに、主人が「南陽にいってみたい」 と。。。
仕事で南陽市のあるお寺と関わってから、

南陽市の寺巡りをしたくなったという。
 
 でも、南陽といえば、「鶴の恩返し」の舞台ですから、 

これは行かないと終わらないのだな、と思い、
 疲れた体をラーメン(赤湯の龍上海がうまくて~)
で癒しつつ、行ったのでした。。。。
雪降ってきて寒かった~。
 
漆山神社には、小さな聖徳太子像が祀られています。
讃岐忌部で、書いていた話。

 


 
本当はお寺の方へ先に行きたかった。
またしても、道を間違えていることに気づかず。

 


 
昨年の南陽市熊野大社に行った時の話を再び書きますが、
漆山神社は、諏訪大明神の他、

手於気穗於威命(タオキホオイノミコト) 
 比古佐槌之美古止(ヒコサツチノミコト)、

陰陽五行神  薬師如来を祀っているとの事。

(八百神のサイトより)

 



熊野大社の話をブログに書いていた時に、
初めて聞いた手於気穗於威命 だったので調べたら、
讃岐忌部が祀る神とわかった。

大麻(おおさ)神社」の社伝には、
 『神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が
協力して麻を植え、讃岐平野を開いた』と。

 


 
雪に埋もれた祠が。
 

 


 

気になる石・・・。

 


 
さて、すぐ隣のお寺へ。

 



誰もが知っている『鶴の恩返し』 
金蔵という人が仏門に帰依したお寺が、
熊野大社の近くにある鶴布山珍蔵寺と言う。

 


 
 鶴の毛織物が寺の宝にされていた、

という言い伝えが残されています。
また寺の梵鐘にも鶴の恩返しが浮き彫りにされているとの事。(見るの忘れたてへぺろ
 
看板より
『1460年(室町時代)極堂三和尚による開山と伝えられます。

 開山縁起は、1804年につくられた古文書の
『鶴城地名選』(この地方の 神社、寺、地理について記したもの)
中の『鶴の恩返し』の話に 記されております。

また寺の名前のうち「鶴布」は、鶴が恩返しに羽で織った 布に、
そして「珍蔵」は鶴を助けた民話の主人公の名前に由来していることも

書かれております。
この地域には古くから民話『鶴の恩返し』が語り伝えられており、
鶴巻田、機織川など民話を思い起こさせる地名も残されております。』

 


 
出羽三山がある山形県ですが、南陽市は山形県南に位置し、
聖徳太子と蜂子皇子が関係する話だと思います。

大化の改新の物部氏と蘇我氏の頃、言い伝えでは
蜂子皇子の父、崇俊天皇が暗殺されたので家族をかくまるために、
蜂子皇子に出羽の方(八乙女)へ逃れるように促したのが
聖徳太子だったと伝わる。
 
これは、秦氏or物部氏が蜂子皇子をかくまった話かもしれず。
蜂は、鉢の説があり、鉢で金を鍛練した道具のことが定説。
 
 実際、山形県では庄内町肝煎があり、元は鉢子村でした。
開山した蜂子皇子に因んで称したということです。

おそらく、ここで激動を生き抜いた秦氏一族が途絶えた・・・
感じがするのです。(ここで亡くなったわけではなく)

 


 

仏足。

 

 

南陽へ行く途中に高畠を通るのですが、高畠は新羅の郷でした。

何度か行っている安久津八幡神社ですが、 
奥の院はイワクラになっており、このあたりは縄文洞窟が多い所です。
 

三井寺のサイト(新羅神社考)より、『高畠町史』によれば、
「古代の道を西にたどれば、山ふところにいだかれて
加茂明神旧祠(加茂山麓)・新羅明神祠に至る。 

 八幡社と合わせて安久津三宮と称するものである。 
 源義家・源義綱・源義光をそれぞれ祭祀した宮を総称しての呼称である」

 


 
※阿久津八幡神社

 

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東北に逃れた賀茂家がいたので、忌部は密かに名を変えて、
秦氏と共に天皇の系譜をもつ「霊知り(ひしり)」を守るために 
霊場を開いたと想像する。それを導いていたのは、

聖徳太子であり、聖(ひしり)だった。
=蜂子皇子(聖徳太子の影向?)。

 

蜂子皇子も黒い。

https://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020026/mailmag/series/season/haguro.html.

 

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漆は、縄文時代からありました。
山形は縄文遺跡がとても多いので、1400年も前だったら、
まだ痕跡が残っていたはず。

 

 

八戸:是川縄文遺跡の漆

 

 

縄文人が管理していたウルシ林があった。

 



漆山という名から想像するのは、ミイラです。

これが出羽三山にひろまった『即身仏』なのです。 
腐敗を防ぐために、即身仏には漆をぬるのです。

この漆は、漆を切る時に使う道具が、諏訪大社の薙鎌(なぎがま)にそっくり。

 

※薙鎌


漆山神社という名は、漆からきていると思われます。

 由来などは不明なのですが、聖徳太子が関係するとなれば、 
乾漆棺(かんしつかん)というのがあります。

「夾紵(きょうちょ、麻布)」を漆で貼り重ねる技法によって
作られた棺の一種であり、
乾漆棺の出土例が非常に少なく貴重であり、終末期の古墳にみられ、
当時最高級の棺として貴人の葬送に用いられたと考えられるとの事。

聖徳太子(厩戸皇子)の墓の可能性が高い古墳として「叡福寺北古墳」(明日香村)
 がありますが、棺に漆をぬっていたのです。

 



 考古学的にも厩戸皇子・穴穂部間人皇女(用明天皇皇后、皇子母) 
膳部菩岐々美郎女(皇子妃)ら3人の合葬墓(三骨一廟)の可能性が高いと 
推定されている古墳とのこと。

乾漆棺を用いている古墳は、 奈良県明日香山に集中しています。

埼玉県では八幡山古墳ひとつだけで、物部連兄麿の墓とも言われ、
大阪にもひとつだけ阿武山古墳とあり(中臣鎌足?) 
他は奈良県明日香村にしかない!

やっぱり埼玉と大阪の共通点は、

赤染氏でこれも秦氏が建立したものと思われます。
漆は水銀と違って、植物なのです。

「秦氏に関係深い塗物の材料のヌルデを持ち出して、
秦氏と聖徳太子の密室な関係を伝えたかったのではないか。」
と。
これについては、漆山神社も共通して言えること。
 

※置賜にある白鷹山も養蚕の神。
(白い鷹が舞い降りたので虚空蔵菩薩像を祀っています)

白い=新羅のシンラ。
白い血は、ヌルデ(樹液が白いため)=乳のこと。

これらの思想は、実は、女性たちが広めてきたものだと思う。
秦氏の女性たち。
ずっと機織姫は繋いでくれているのでした。
 

 他、山形県の讃岐忌部についてはこちらを。