【2017-08月の記事】

男鹿半島に入ると、すぐナマハゲが歓迎してくれる。

 



怖い形相で巨大な鬼が包丁を持って
「ようごそ~」とWelcomムードなのは、
シュールだが、これがまた人気で、

インスタにアップする人は多いのだ。

また、秋田といえば、「ババヘラアイス」

 


 

懐かしいジェラートアイスは感激。

ババヘラアイスは鬼に勝るものなし・・・

宿は、門前町というところにある場所でお世話になったのだが、
すぐ目の前が海で、

 

 

裏手の山は、
あの999段の階段を作ったなまはげ伝承で有名な
赤神神社と五社堂がある所だった。



赤神山大権現縁起については、こちらを。

 

 

荒神は、竈神(かまどがみ)として祀まつられる三宝荒神、
屋外に屋敷神・同族神・部落神として
祀る地荒神、牛馬の守護神としての荒神に大別される。

荒神信仰では、鶏を食べることで縁起があるといった風習もある。

 


また、農耕儀礼に関わっているもので、火をたいた神事(火神)であり、
おそらく、ここで農耕儀礼をやっていたと思うが、
タタラ製鉄の祭りの名残ではないか?→拝火教

鶏の夜明けというのは、本山三宝荒神によると、


「夜の明け方に丑寅口を見まいらせ候へば さも凄まじき蛇体の姿にて
と異形の姿は、丑寅の鬼門からやってくる邪悪な存在といわれる。


やっぱり蛇神。
三輪信仰の影響もあるだろう。

「内と外は夜明けに時間の裂け目に訪れる。

鶏が太陽の「陽」の気を一番早く感じる鳥といわれ、重宝されている。
朝一番に鳴く鶏は新しい時間の始まり。

修験は、山と里の2つの空間を自由に行き来した。

自らの在り方を変えるために、洞窟にこもることをし、
修行を通じて、山と里の境界をひく。

村人は、そんな山には鬼が住むと考え、あの世を繋げる
働きをしていると考えていた。

また山に入ることで、内在にある自身が自然と一体化
することも望んでいた。」


※参照「神と仏の民俗 鈴木正崇著」

 

 

菅江真澄と男鹿半島

 

菅江真澄が男鹿半島で書いた日記「男鹿の五風」は、
往時の男鹿を知る貴重な文献となっている。

~門前から本山に登り、
赤神山日積寺に詣でたことが書かれている。

「菅江真澄の道:門前」

 



1804年菅江真澄は次のような由来を記述している。

「門前の浦に入った。
袖垣に着物を干しかけてある。
小橋を渡ると萱ぶきの堂がある。
何が祭られているのか。

飽海郡落伏寺(山形県遊佐町)、
陸奥の黒石寺(岩手県水沢市)
などのように自然石をたたんで御坂としていた。

これも一夜のうちに鬼が集まって築いたという物語がある。

伝え聞くところによると、
景行天皇の御代、近江の竹生島と同じく湧き出た山という。

紀伊国熊野新宮、本宮になぞらえ、
金剛、胎蔵ふたつの峰として、いま、真山本山という。

円仁(慈覚大師)が仁明帝の承和4年(837年)のころ唐にわたり、
文徳帝の仁寿の年(851年~854)
この山で修行され、天台の仏法を行い、
赤神山日積永禅院といったが、近世になって真言宗に改宗したという。

その昔、自寂院、仙壽院、印象院、円月院、照光院、
泉光院など多くの寺があったが、
今は吉祥院、長楽院だけ残っている。」


 

 

大門の仁王は運慶の作と伝えられている。
楼の大鐘は1392年に鋳たものである。

 

 



小堂はいかめしく、蓮の生えた池の面に半ばさしでて建てられ、
中島に弁財天の小さな祠があり、
松が生いている風情はことにおもしろい。
板をはるばる登ると姿見の井戸があり。

この水鏡がくもって、姿がぼんやり映った人は
命が長くないという占いもあるという。
 

 
九九九段の階段

 


姿見の井戸

 

御手洗の池

またこの山に、五百人もの童をつれ、
乱を逃れて不老不死の薬を採りに来たという
秦の徐福の塚というものがある。

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菅江真澄が見ていた同じ風景を見られるのは貴重なこと。

 


何百年も変わらない風景が、減少している中、
東北地方には、多くの環境哲学の真髄が残っている。

その空気に触れられる「みちのくの原風景」とは、
厳しい環境の中で人々が生き抜いてきた姿勢にある。

 

 

五社堂

徐福塚

 

「司馬遷によって書き表された中国で最も古い歴史書に
秦の始皇帝の命を受けた男が、
童男童女数千人を乗せた舟で海を渡り、
不老不死の薬を探しに東方へ向けて旅立ったとある。

今からおよそ二千二百年前のこと、
その向かった先が日本であり、
その命を受けた男が「徐福」だったと言われる。

徐福は、神薬(薬草)を求めてさまざまな所を旅したためか、
日本各地に徐福伝説が残されており、そのうちの一つが男鹿にもあった。

江戸時代の紀行家・菅江真澄は男鹿の門前を訪ねたときに
日記に、徐福塚(墓)を図絵と文章で記録している。


それには、

 

「古、渤海及び鉄利の人一千百余人が吾国を慕い来て
出羽国に置き、衣食を給して還したと続日本紀にある。

その異国の人たちがこの処にいった頃、
武帝の廟或いは大保田村の
蘇武塚や、この徐福の塚など、
その当時祭ったのかもしれぬ

と書かれている。

 

※白い丸のところが徐福塚

また、船越御役屋の役人だった鈴木重孝が書き残した
男鹿の地誌「絹ぶるい」にも徐福塚が記録されている。

しかし、その徐福塚は道路工事などで失われてしまったのか、
今では探しようがない。

そこで門前に伝わる徐福伝説を後世に伝えようと、
真澄の図絵を参考にこの地に産する門前石で、
徐福塚を復元したと伝えている。

 



2000年以上も前に渡来したと言われる秦の末裔。

ノアの末裔みたいな話だが、
徐福の一族に深い関係のある人が、
男鹿半島に塚を祀ったと考えられる。

これは平成17年とあるので、最近の復元だが、
秋田物部氏が漂流したことがあれば、
渡来した最初の上陸が、出羽国だった。

どのくらいの数か、男鹿半島に来たけれど、
実際、ここでの生活はとても質素なものだったと想像される。

ところで、男鹿半島に上陸したナマハゲは、
「五色のコウモリ」だった。

 



赤神神社の由来にもあるように、
菅江真澄の伝承によると、

「コウモリの窟に漕ぎ寄せて、舵で船端をたたくと、
その音に驚いてコウモリがむらむらと出てくるが、
この中に五色のコウモリがいるという。
それで五色のコウモリが五頭の鬼になったという伝説があるのだろうか」

 

 

※舞台島

 

※漢の武帝が舞台島に降りたち、巫女に舞をさせた伝承。

「五色の人種」というのは、オーパーツとして、
太古の昔より火の神を祀る幣立神宮
(宮崎県)に五色のお面が祀られている。

太古の人のことで、神は、
紫人(黒人)、白人、黄人、赤人、青人の五色の人類が造られた。

アフリカから人類が生まれたことから、
始めの人類は、黒い人で「紫」にたとえていた。

この五色人が全世界に散らばって、
現在の世界の人種になったという説。

興味深いサイトを発見。

赤は、ユダヤで「モーセ面」と呼んだという。

ということは、ナマハゲの赤は、
オリエンタルユダヤであり、モーセから徐福が繋がる。

ナマハゲの青い方は、スラブ人(インド・ヨーロッパ語族)
ということに。

 

※高校生のためのおもしろ歴史教室より

http://feb27.sakura.ne.jp/episode06.html
 

秋田県の海では赤いUFOがよく現れることでも有名。

赤神神社があるように、
赤い星を象徴としているもの?

私の夢にも青と赤のUFOがよく登場する。

魂が記憶している形が、空飛ぶ光る円盤とは、面白い。
 
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ということで過去にいった男鹿半島が
モーセの末裔の痕跡があると想像できる事。

今年は、辰年なので、龍の話も。

もうひとつ、「五龍王」というものあり。

荒神神楽では「藁の龍」を「タツ」とよぶ。

神が霊としてあらわれる意味で、見えない霊を形象化させているもの。

王子舞というのがあり、
東西南北中央に青龍王、赤龍王、白龍王、黒龍王、黄龍王
を鎮める舞という。

やはり龍や蛇信仰にムスビつけられる。

蛇や龍は水を支配する。


福や富、性の支配者、豊饒力とは、神楽にもみられ、
蛇の杖をもった姿とは、フギとニョカの姿であり、
水を支配する存在を神として崇められ神楽は、
日本にはたくさん残されている。

このような土着信仰ともよべる
豊かで平和な精神を残す先住の日本に、
渡来人がここにあり続けることを、何度も望んできた。

 



だから、水が動いていると思うことだが、
残念ながら、人も流動するため、
変貌し変わっていく。

 

あの時の家族であったことは、

戻らない。

不老不死とは、どういう意味か。
それを望む徐福が、何かを伝えたいのだろう。

 



こつこつと記録を残し、

思いをぶつけてみる。

あの世に向けて。

「泣く子はいねが~」は、おしまい。