瞽女(ごぜ)を知っている人は、
もうほとんどいないだろう…

 



これを教える教育の場などはないのだが、
日本の土着、性の歴史・文化については、
他国から厳しく批判されることがあるが、

これらを救ってきた中に、日本の弱点を知る

欧米の組織があったりする。


日本人どうしで差別をしてきた土着の歴史。


そこに目をつけた欧米が、

今の日本をつくってきたこともある。


残念なことに、日本の歴史のどこかで歯車がからみ、
封印してきた抑圧によって、
放置してきた(向き合うことをしなかった)要因があると思う。

しかし、その世界を「民俗」として
研究してきた人たちは、ほとんど男性だ。

 

なぜなら、女性は、このことを研究、論じるのではなく、

体験として「語り部」になっているから。

斎藤真一が「瞽女(ごぜ)」に関心をもったのは
何がきっかけだったのか、純粋に知りたっかった。



その展示をしているのが、天童市にあり
日本酒:出羽桜に並ぶ古民家に美術館がある。

 

 



「1988年に、三代目仲野清次郎が永年に亘って蒐集してきた陶磁器、

工芸品等の寄贈を受けて開館しました。

 

三代目清次郎の旧住宅である明治後期頃の伝統的日本家屋の建物を活用し、

木造瓦葺の母屋と蔵座敷を展示室として公開しております。

 


主な収蔵品は、古韓国・新羅・高麗・李朝期の陶磁器と工芸品で、

その他、斎藤真一「瞽女・明治吉原細見記」、近代文人の書、桜に因んだ工芸品、

日本六古窯等、三ヶ月毎の企画展示をしています。」

 

 

瞽女とは



「日本の女性の盲人芸能者を意味する歴史的名称」

近世までには、ほぼ全国的に活躍し、
20世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、
ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人のこと。

東北各地、福島県浜通り地方も訪れて、門付芸をしていたとされる。
ラジオやテレビがまだ普及する以前、
農村部では農閑期にやってくる娯楽として歓迎されたことがあった。

私が瞽女に関心をもったきっかけが「皇女」と関係していた
ことを思わす「瞽女縁起」から。

嵯峨天皇の第四宮女にて相模の姫君

という文面がある。

相模の姫君が盲人の子で、
七歳の時に紀伊国那智山如意輪観世菩薩が枕元にたち

「君は末世の女人盲人の師と成らせ給ふへし・・・」


とお告げがあるのだが、

紀伊国の如意輪観音様とは、熊野のこと。
那智山如意輪観世菩薩=青岸渡寺

この正式名を「青龍妙音弁財天(出町)」と言うそうだ。

びわ演奏の名家、西園寺家、伏見宮家が
もたらした妙音弁才天とされるのだが、

宮廷と瞽女の関係とは、
「西洋の叙事詩から語り部へ」と至ったルーツと似ている。


妙音講とは、妙音天をまつり、
その像に供物を供え、
琵琶などの音曲を手向ける音楽の仲間の集会。


昔、京都の西園寺家その他で催した。

ということから、由縁を相模にしたのは、
「江の島の弁才天」のことを示すためだと思う。

 



※左が妙音弁財天


語り部は、教祖をどこに発するのか、
それにより盲人の巫女たちは、
将軍から(源頼朝や伊達政宗などが由縁に登場)
容認され、一般の生活を許されることになる。

生きていくためには、語りが必要だった。

 



今も変わらない男女の問題。

人類の永遠の課題。

すべての人がトラウマを抱えている。

そこに向き合える人こそ、
新しい道をつくることができる。


「金の屏風も中はぼろ、

人は見かけによらぬもの」瞽女唄


歴史は残酷でもあり。
拒否してきたものこそが、美しかったことに

気づく時は、もう遅いのだろうか。



斎藤真一のハガキ。

冬のごぜが好き。

 

おまけ-------------------------------

 

天童といったら「一庵蕎麦」によく行く。

山形県天童市一日町3丁目4−50

 

そばと温泉。指差し

で、心も体も癒す。

 

 

温かい肉そばが人気。

 

 

今年の冬は、雪がほとんどないな・・・