過去記事のまとめです。
アイヌをテーマに。

これは、2016年9月に東北歴史博物館でみたモノ。

 



この展示が非常に珍しい?と思い、
これが何なのかその時は、わからず。
詳細不明と解説もよくわからなかった。

気になったので、後で調べてみたら、
『モノから見たアイヌの文化史』関根達人著の本に、
この神器が描かれていたのです。

 

 

 

アイヌの神器の中で最高宝 

 

東北歴史博物館の小さなコーナーに展示さていたアイヌの遺品は、
東京在住の杉山さんという方がおりまして「杉山コレクション」

 

https://www.thm.pref.miyagi.jp/exhibition/1518/

 

※図案家としての職業のかたわら考古学・民俗学を中心に
研究活動を行った故杉山寿栄男(すえお)氏。

 

アイヌ人の遺品をコレクションしていました。
東京大空襲で大半が焼失してしまったそうですが、
なんとか免れた遺品が、石巻へ渡り東北歴史博物館に寄贈されたということです。

この神宝といわれるモノは、

「鍬先(形)」、「クワガタ」という。

昆虫のクワガタみたいですが、たぶん、そういう意味があって、やはり角です。

それでこの鍬形が、全国でもお目にかかれるのは珍しい
神器だということがわかりました。

「銅鐸通信」というサイトに、
詳しくのっていましたので参考にさせて頂きます。

 

 

現在まで発見された鍬形はおよそ20例ほど

その中で保存されているのは
東京国立博物館や東北歴史博物館、小樽市博物館、
北大植物園博物館などわずか8点で、
一般に公開されて見られるのは東博所蔵品ぐらい


やはり、東北歴史博物館でみられるのは、

貴重だった!びっくり

兜の前に立てる飾りとして模したものとも言われますが、
和人からもらったものであり、
アイヌ人がこのようなモノを持つのは、意外なことでもあるのです。

「霊力が強すぎるため、ずっと置いておくとその村に災いが起こるので首長が
どこかの山中に埋めてくる。

だから首長が死んだらそのありかは分からなくなるので、
現物はほとんど残っていないという
。」


鍬形を持つアイヌの首長の図がありますが、
首長のみ持つことを許されたようです。

 


※「東武画像」

 

 

キロウウシトミカムイ 

 

関根達人著の「モノからアイヌ文化史」によると、
兜の鍬形が魔法の道具として使われたとありました。

アイヌの宝物には、役に立ち価値のあるものを「イヨクペ」といい、
豪華で素晴らしいものを「イコロ」とよんだ。

イコロを所有する者が「ニシパ」とよび、
「ニシ=空、パ=上(長)」を表すと。

アイヌの宝物の中でも、先が二又にわかれている兜の前立を模した「鍬形」
を、「ベラシトミカムイ(へらのついた宝器)や
「キロウウシトミカムイ(キロウは角)」
と呼ばれ、とりわけ大切に扱われた。


→おそらく「大人(ウシ)」の「角(キロウ)」=キロウウシ トミ カムイ


鍬形には、病人の枕元において災いを払うなどの霊力があり、家に置いておくと
祟りをなすために、普段は「地室に蔵し」あるいは、
「深山巌窟に秘蔵し安ずる」という。

鍬形だけではなく、鎧や金の角をつけた甲など、すべては酋長の宝物として
釧路地方には多く伝わるそうです。

先ほどのせた画像(東武画像)は、蝦夷錦を着ているものです。

著者によれば、この絵図のように持っていることは「不自然」という。


この図は、松前藩(北海道)の支配下にアイヌの人たちが置かれていた時
松前藩に味方した「チョウサマ」という首長の絵であり、
松前藩の家老であった絵師によって描かれたものだとする。


300名あまりのアイヌを率いて参加者が逃亡するのを防ぐことをした側の
アイヌ人によって描かれている、という解釈。

なので、
この図には、勝利した側の絵図として、

神宝を「もたせて」描かれたとみえるのです。

なので、アイヌの指導者層の権威を高める演出道具のようだ、と。

 



※山丹服(蝦夷錦・山丹錦) 国立民族学博物館 

実際の神器は、密かに隠して置いたものか、
岩陰や地中から発見されることがあるそうです。

平安時後期~末期に製作されたものもあるという。

北海道から出土される鍬形の多くは、和人の交易で入手した鉄・銀などの
金属板を加工することによってアイヌ人が作製したと考えられるそうです。

刀もそうですが、装飾技法は、大陸からもたらされた技法で、
アイヌ文化が成立した頃には、本州から本物の前立としての機能を失い、
独自の様式化が進んだという。

それが、神宝として伝わっているということのようです。

また、刀の装飾品も素晴らしいのですが、
刀がない(中身がない)ものもあったそうです。

装飾品だけにこだわっていたのでしょうか?

 

アイヌ人の遺品やコレクションには、

刀の取手部分の装飾品などをたくさん持っていたりしますね。
歴史は、絵で見ることもある、のですな~~。

 

 

7つもみつかった栗山という所 

 

さて、そんなアイヌ人が神宝とした鍬形が多くみつかっている
所が、北海道の「栗山町」という所。

 

栗山町には、田畑から7点も鍬形が見つかっているのです!キョロキョロ

なぜ、ここに集中しているのか、わかりません。

この場所を、チェックしたら、宮城と関係していた・・・

アイヌ語の「ヤム・ニ・ウシ」に由来し、
「栗の木の繁茂しているところ」に起源しています。


その、栗山町は、

1888年(明治21年)5月16日「宮城県角田藩士」泉麟太郎氏
「夕張開墾起業組合」を設立7戸24人が阿野呂川左岸(角田)に入植。


角田!
けっこう、宮城と繋がっていた~。

泉氏は、「戊辰戦争で幕府方に付いた仙台角田支藩が維新後、
北海道移住を志すと兄とともに移住の指導者となった」との事。

角田といえば、石川氏ですよね。
仙台藩の~。

そうだった、角田には北海道との歴史があったことを思いだす。


と、いってもそれと鍬形が関係しているわけではないですが、
栗山町と角田が繋がっているところ意外でした。

 

 

オキクルミの目覚め 

 

最後に、
アイヌ文化については、まだまだ知らないことだらけですが、
「記紀や古事記だけにとらわれない日本の歴史を知ってほしい」
と、そんなことを伝えているようなアイヌ人の宝器です。

もうひとつわかったこと。
アイヌ人の神の言葉には「K」音が多いそうです。
カミ、クシ、カイ、など。

オキクルミの伝承がありますが、

オキは、目覚める。
クルが影、
ミは女。


人類の最初は「コトバ」から文明が始まっています。
日本語という言葉が重要なのですが、

アイヌ語や北方の方言なども、重要だと思います。

 

 

※ハルニレの樹(北海道)

 

アイヌ・ラッ・クル伝より
母親は天上から最初に地上に降りた女神、

ハルニレの木の精霊でもあるチキサニ姫。

父は、日の神。

アイヌ人が深いところで、
縄文人や弥生人と繋げていたのではないか、と考えると、
松前藩との争いの意味も、みえてくるものです。

アイヌ人がその神器を「埋めた」のは、
和人が争いをする(兜の意味があってですから)
それをこの世から消すために土中に埋めた。
と、私は思う。

それは、出雲の銅鐸と似ているからです。

 

ということで、なぜか、これを書きたい衝動にかられた。

争いが始まったからでしょう。

肝に銘じるべし、と言っているのかもしれません。

 

おしまい。

 

 

オキクルミの妹 (アイヌの歌が気持ち良い)