続きすぎです。絶望

最後には、ケルトに繋がった。
果てしない東~西へ、逆グレイトジャーニな旅。爆  笑

善徳女王のことをずっと書いてましたが、
花郎のことも。
 

 

弥勒菩薩半跏思惟像

 

この頃は、日本に「弥勒菩薩像」がやってきた時です。

日本の国宝(木像部門)で「第一号」(他にも第一号はあります)
になっているのが、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)で、
京都府京都市太秦の広隆寺霊宝殿に安置されています。

「宝冠弥勒」という冠をかぶっている像です。
金箔の像だったと。

 

※広降寺

私は中宮寺の方の弥勒菩薩は拝見したことがあるのですが、
「半跏思惟」というのは日本独特?とも聞いたのですけど、
秦氏が敬っていた弥勒菩薩で有名です。

 

※中宮寺

このポーズが「半跏思惟」なんだそうです。

どうしたら、悩みが解決できるだろうか・・・大あくび
な、ことを考えている時の気品ある姿。

この弥勒菩薩半跏思惟像を、

「推古天皇」に送ったのが、

善徳女王の父
「真平王(しんぺいおう)」というのです!


※『善徳女王の真実』より参照。

 『一代要記』より、推古天皇2年5月3日、
「天皇が病で倒れたので、聖徳太子が推古天皇のために
(574年~622年)
様々な伽藍を建てるよう誓願す。
ブッダの姿をした仏像を願うと、七月に新羅の王が金仏像を贈った。

その高さは二尺で広隆寺に安置された」


その送った仏像が、弥勒菩薩半跏思惟像で
新羅の赤松でつくられたものであるとわかった。

しかし~、その後の調査からいろいろ出てきまして、
百済説、日本が模してつくったから日本説、などあります。


アカマツは、当時から日本に生息していたこともあったなど、

あーいえば、こーいう。

 

※弥勒菩薩半跏思惟像

百済後期、韓国瑞山市伽耶山

(石彫磨崖仏、釈迦三尊像の左脇侍)、
大韓民国指定国宝第84号

『広隆寺資財交替実録帳』によれば(wikipedia)
2体安置されており、
1体には「所謂太子本願御形」、
もう1体には「在薬師仏殿之内」との注記がある。


「太子本願御形」の像が宝冠弥勒であるため、
推古天皇に送った仏像であることは、確かと思います。

いやいや~、百済か新羅か、はたまた伽耶か倭国か、
というのは、おいときまして。

知りたいのは、
なぜ、推古天皇に弥勒菩薩なのか?

「ミトラ」


そこー。

 

 

弥勒は新羅から伽耶へ

 

なるほど~と思ったのは、推古天皇に弥勒菩薩を
送った真平王について、
姓は金、諱は「伯浄」とあったので、
「伯」という人は、日本に渡来して「秦」に名を変えているそうです。

夏王朝をたてた禹王の家臣に「伯益」という名前が
登場するのですが、
伯益は、日本に渡来した秦氏なんだそうです。
(相当古いですけどね)

 

もし、秦氏が「白」を貴重とし、

秦氏の子孫として「白」を用いたのであれば。

日本では、
「白」を強調するのは、新羅は「シンラ」ともよび、
白をシラと呼ぶため、
オシラサマの「シラ」もその関連があると言う説も。

白山信仰も白のため、イタコ、口寄せの信仰に
東北では白山信仰が結びつけられている例も確かにみられます。

※のの岳や平泉など。

 

例として。

箟峯寺の白山堂。

 

 

地元の人の話しだと、

昔、口寄せの巫女のことを「のーのさん」と呼んだそうです。なので、のの岳という説もあり。

天台宗と結びついていますので。

 

 

のーのさん。指差し

 



その、伯は、漢字が「にんべん」ですから、
「白の人」ということは、五行であてはめると、

金・西・白虎など。
形は「丸」

金は、黄色と思っていたけど、
白なんですねー。

対して、黄色は、土。
方角は、「中央」なので、中心にあるのが「黄色」としているから、
皇帝の色に(中国では)なっているのかもしれません。
その形は「四角」。

丸と四角の象形は、前方後円墳と、

これ。

 

女媧と伏羲


白と黄色で、西と中央の意味があり、
歴代の王が丸と四角で合わせている

墓=前方後円墳といえば、そうなりますね。

 

でも、すぐに衰退してしまう。

実は、この伯の名をつけている人が日本にもいるのです。
「佐伯」氏。
空海の母!

佐伯氏は、日下部とからめて
以前、鬼退治のことを書いてました。

やはり、「鬼道」といわれた
卑弥呼が関係していると思いますね~。

日下部=海部=物部氏。
佐伯氏=母方は物部氏。

空海は、母への思いがあって虚空蔵菩薩を信仰しています。

それは、秦氏が母への思いがあって弥勒崇拝をしているのと似ている。

 

その母とは、地球の象徴的「母」。
いろいろ推測できると思います。

 

 

 

巨石文明にありますね。

上の写真、隕石が埋まったもの!?なんですって。


ということなので、
この時代に、物部氏と蘇我氏がうまくいかなかった理由がみえてくるし、
蘇我氏を天皇家にしたのは、秦氏のバックがあってでしょう。

 

であれば、善徳女王の遠祖は、
日本へ渡った秦氏とも関係をもっていた
かもしれず。

しかし、推古天皇は「伽耶」の人であるとされる。
新羅は伽耶を征服しています。

日本へ逃れた伽耶人に対して、新羅王が弥勒菩薩を送った理由は?
いろいろ考えられる中で、著者の見解から、

・推古天皇の頃は、百済の仏教や芸術品をとりいれ、
活発に交流していました。
日本と百済の関係が深い時、
先に百済からの先手をとって新羅から仏像を献上したかった事。

・新羅が伽耶を征服した為、伽耶人の怒りをおさめるため。

・日本との関係を改善させる目的。

・推古天皇が女帝だったので、徳曼王女(後の善徳女王)
を推古天皇と同じように女帝になれることをアピールするため、など。

 

 

 

伽耶系蘇我氏を天皇家にするため?

 

また簡単なこの系譜を使いますけど、
蘇我氏と物部氏の関係を。


これを書かないと次で終わりにできない。

 



おさらい・・・


敏達天皇の皇后には、広姫(息長氏)と→新羅系
推古天皇がいます。→伽耶系

推古天皇の女系が蘇我氏なので、
新羅に征服された伽耶を、日本では女帝として天皇家に
いれたい理由があったのかどうか?

伽耶が日本と深い関わりがあった証拠なのですが、
これは、後に九州との関係にも意味をもちます。

 

しかし、最終的に、チヌ王(渟の漢字)が謎で、

舒明天皇(じょめい)の息長氏が即位します。

 

この天皇は、「蘇我蝦夷」が決めたらしく、

対立をふせぐために、あえて蘇我氏の血統ではない人を

選んだというのですが、謎です。

 

う~ん、蘇我氏の血統が必要だったから推古天皇だったのに、

次の天皇は、蘇我氏の血統をさけたと?

 

※推古天皇


推古天皇が即位した背景は、
用明天皇が亡くなった後、
崇俊天皇が即位するのですが、暗殺されたとなっています。
※崇俊天皇の子:蜂子皇子(出羽三山開山)
母は、小手姫(福島県の機織姫)

蘇我一族が伽耶であれば、新羅からうけた報復?
そのため、崇俊天皇を排除したことも?

ここから、蘇我氏と物部氏の対立へ。

崇俊天皇の後に、推古天皇が即位しているのは、
広姫が亡くなったので、推古天皇が即位したとある。


推古天皇は、「額田部王」とも「炊屋姫」とも言われます。
「ケ」(食・豊饒)の女神になっていると思います。

 

 

王の特権は翡翠?

 

 


大伴氏と物部氏は、伴って関わっていました。

大伴連・物部連と共に、「大連(おおむらじ)」とよばれ
古墳時代の役職です。
小手姫の父は、大伴氏ですから。

しかし、物部氏とも亀裂が。

継体天皇を即位させた人物に、
大伴金村がいます。

 

大伴金村の子は、
大伴 狭手彦(おおとものさてひこ)
という人がおり、この方との悲恋話が、

佐用姫のお相手なんです。

九州では有名な伝説。

 


 

なにが言いたいかといえば・・・

 

以前から妄想している「ヌナ(渟)」の人々は、

「日本海で翡翠の交易をおこなっていた」民という妄想でした。

 

渟が、水を停める、治水の意味もあったのですが、

翡翠の産地などにつけるとも言われる。

 

その翡翠が、邪馬台国となんらかの関係があれば、

伽耶からもたらされたものに、重要な意味が隠されていると思うのです。

 

翡翠などの鉱石資源と技術、知識、また金細工などの芸術に

特に秀でていたならば、軍事力にも必要です。


翡翠は、世界の文明に大きな影響を与えていることも。

 

(勾玉は王の象徴)

 

 

この翡翠の民は、

伽耶を象徴している?と。

 

蘇我氏と翡翠、伽耶。

 

系譜をみると、最終的にはチヌ王は排除されているとなれば・・・

表には登場しなくなったのは、出雲?

 

以前の考察ですと、「渟」は難波津の古い津のことで、

大国主のことがありました。(恵比寿信仰)

難波に、日本産の翡翠を集めている。



えーと、大陸では良質の翡翠(日本海)

のものが、重宝されたと。

 

ヌナカワヒメが翡翠の交易をやっていたことも繋がります。

 

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さて、大伴氏は、百済とみる。

伽耶の面倒をみていた大伴氏。

 

しかし、大伴金村が新羅との割譲(土地を分配)
する政策で失敗したから、という理由で失脚させられたとなっている。

それで?小手姫は、福島へ逃れた説もある。
桑を地元の人に奨励したことから、
秦氏と共に少人数でやってきたと伝わります。

でも、秦氏は「どこにも属さない」人物なんですよね。
どちらにも現れ、消える。

日本に渡来した伽耶の面倒をみていたのは、大伴氏です。
百済説があるので、百済とすれば、大伴氏が排除された理由とは、

新羅は唐とむすび、百済を滅亡させたかったからでは?
(新羅・唐連合により660年百済滅亡)

なので、その後、征夷大将軍になっているのは、百済ですよね。
最初は、大伴弟麻呂、後に、坂上田村麻呂。

百済が征夷大将軍になっているのは、
新羅への復讐もあったのかもしれません。

その時、
百済が助けを求めたのは、日本です。

そこには、新羅によって征服された伽耶がいました。

しかし、あまり激しい争いはなかったと考えられ、
互いに鉄や金細工の技術が融合されているので、
百済、新羅、伽耶にも金細工の技術、
青銅、鉄の技術が優れていました。

 

新羅が伽耶と統合したかった背景に、

秦氏の思想=弥勒菩薩があったのならば、

興味深いことです。

そのような技術を互いに教えあい、
学びあっていた痕跡があります。

その金細工から、ケルトが浮かぶ。

 

 

1998年、みにいってました~。

なつかしい。

私はケルトから古代史に入ってます。

原点は、ここ。

 

西の縄文。

はてしない東への旅を続けた理由。

 

縄文と出会いたかった!ラブ


九州を中心とした歴史なので、
巨石文明とも重なるケルト。

 

ケルトが翡翠なり出雲なりと関係するのかは、

わかりませんが、

蘇我氏が石室を重んじていることや
葛城氏のこともふまえて後で記しておきます。

当時、大陸から渡来する人たちを阻止するために、
日本への渡航を阻止した海民がいたそうです。

その人が、物部 麁鹿火(もののべ の あらかひ)

 

乙女にしすぎ~おばけ

すぐいじる~。

 

先に述べました、継体天皇を擁立したのは、
この方と大伴金村。

 

なぜ、阻止したか?

もう一人、九州に強い豪族がいました
伽耶を再興させるために、

大和朝廷と戦った人がいたのです。

 

物部の石VS阿蘇の石

というイメージ。

 

石の戦いとは・・・ケルトらしいっつーか。

日本は「東の最果ての島」です。
西洋からみれば、楽園にしたいはずです。
「もうこの先はない」

大陸の端は、朝鮮半島、
伽耶のあった地。

その苦悩を知っているのは、
弥勒菩薩半跏思惟像だけでしょう。

難しい話がずっと続いたので、
最後は、かるく阿蘇の石とケルトの話しで、しめます。ヒヨコ