あづ~オエー

秋田市内は大丈夫でしょうか?

この時期に秋田へでかけることが
過去に何度かあったので、雄物川が氾濫することは
よくありましたが、ここまでの集中豪雨はないと思います。

暑いですのでご自愛くださいませ。
 

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先月の話しです。

被災地に新しい店がオープンしたのは、
いつだったか、猿田彦珈琲ができるとあって、
行ったことがありますが。(まだその時は混んでいて入らなかった)

 



しかし、震災の爪跡にこのようなキラキラした所は
必要なのか・・・とか言って、食す。

 

 

おいしゅうござぃました。

 



しかし、ここにも、あの歴史があった。
 

 

五柱神社

 

ここ、知りませんでした。

 



康平3年(1060年)に、源頼義父子が東夷征伐の際、常陸国の村松に、
(茨城県東海村)に勧請したとされる。
(封内風土記より)

現在の村松大神宮とされる(茨城県那珂郡東海村村松)

 

 

 

 

 

神社庁より
常陸国村松に伊勢、賀茂、祇園、稲荷、春日の五神
勧請して戦捷を祈った古社で(村松大神宮)
、後花園天皇の永享7年(1435、室町)宍戸、佐竹、野口、
永倉合戦の時、兵火に罹り、社・家等離散した。

これを以って新に今の地を開いて遷座し、
五社明神とも称されたが、その年月は詳らかでない。
(或は、五柱の神体が筏に乗って、此の浜に漂着したとも伝え言う)

 



また、釜の地名が点在する海側なので、
「塩の釜」に関係すると思います。
なので、こんな言い伝えが。

藩祖伊達政宗遊猟の際、此社に立寄って老翁から明神の由来を聞いて、
社殿を再興したという

 

 

塩釜さまですよね。

 



藤塚の地名は、
境内に藤の古木が数種あり、神体漂着の際、
乗って来た筏の藤に根が生じて繁茂したもので、
藤塚の地名もこれに起因していること。

 



斎宮の娘は「藤原北家」とも言われる。
なぜなら、伊勢と賀茂といえば、斎宮。

もうずっと藤原北家しか繋がらない。
なぜ、北家が重要か?

藤原北家が東北に多くきているのですが、
直接、迫害につながっているかは不明です。
(北家の系譜というのは、他に藤原秀郷がいる)

だから、秦氏も迫害されている気がするのですよね。
秦氏が残酷な藤原家を操っていたかは不明。

 



斎宮についてちょっと説明。
名取郡(現:岩沼)には、神明社が多く、

長谷(はせ)の地名も多い。

(初瀬のはせ由来かは不明)

この神社は、中世以降に祀られている説があるので、
そんなに古いものではないのですが、伊勢の神を祀ることは同じ。

その理由として、斎宮が伊勢から東北へきていること。

「斎院」というのがあり、平安時代~鎌倉時代
賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の
両神に奉仕した皇女のこと。

「斎王」は、賀茂神だけではなく、
伊勢神宮の斎宮もあわせて斎王(斎皇女)と言ったそうです。

わかりやすく賀茂斎院、賀茂斎王と言って、
賀茂祭は「葵祭」のことです。

 

※斎王代以下女人列禊の儀 記念写真。

下鴨神社にて(wikipedia)

むうー、斎宮の中でもボスがいたな。


なぜ、東北の名取郡に斎宮伝説があるのか?
これは「斎院」のことなのだろうか?

藤原北家のことが大いに関係します。

 

 

斎院は藤原北家の娘と決まっている?

 

「藤原北家出身の母をもつ皇女が斎院に選定されていた」
ことがあったという。

 

※斎宮歴史博物館 展示物 都を出る斎王(wikipedia) 

 

斎宮の歴史より「斎院(賀茂)」の方が藤原北家の執権者の

出自を持つ皇女が選定されているそうです。
この頃の天皇の生母が、藤原北家出身が多いからだそう。

執権者が賀茂家と関係が深いため
自分の孫を斎院にして葵祭を政治だけではなく、
祭祀にも藤原北家が誇示したい意図があると。

※「伊勢斎宮の選定に関する小考 板倉則衣」より

そのようなことから、藤原北家が東北まで勢力をのばし、
藤原実方がこちらへ来ている理由もみえてきます。

また、東北へ足を伸ばしたのは、「賀茂家」のサポートがあったからでしょう。
その痕跡がみえないけれど、伝説ではちゃんと伝えています。

ということは、
蝦夷征伐に藤原北家の斎院の娘たちを利用して

藤原家は東北を「祭祀(祈祷)を以て」占拠してきた、
という事なのでしょうか?

ん~、やはり蝦夷が強かったため、
藤原家の貴族文化は衰退しますが。


中臣系ではない藤の人達が残り、
源頼朝を中心とした関東武士軍団が
藤原北家をつぶしたかった、とか。

しかし、娘たちに罪はない、と言いたいでしょう。
ここは、伊勢の地ではありません。

 



斎宮たちの大変な厳しい苦労があったことは、
伝説を読めばわかります。

 



また、その話については『源氏物語』もそうで、
藤原北家である藤原道長の下で書かれたこの物語も、
北家が藤原鎌足の血筋で(大化の改新を起した)
「討って奪う」というやり方が
「他氏排斥事件」(藤原家が誰に対して失脚させたか)
ということが、脈々と続いているわけです。
※紫式部の『源氏物語』への道から

奈良時代、他氏排斥のひとつとして、
恵美押勝の乱がありますね。

名取郡にはその乱で多くの藤原家の一族などが

逃れていると聞く。

 

伊勢の内宮・外宮を祀る神明社(岩沼)の伝承があるように。
恵美押勝を指示していた参議(藤原御楯)という人も藤原北家。

北家=斎院=神明社という関係。
伊勢とのパイプ(天照大神)を東北にもたらした。
 

 



かつての名取郡の海側に広く伝承されている釜の地名も
賀茂明神と関係が深いわけですから→塩の製精。
だから、塩の交易できている藤原実方がいるのですね。
(藤原実方は賀茂家?)

 



藤原家の内乱で失脚した藤原北家が(あるいはその家臣)閖上近郊に漂着して、
藤塚となり、塩の交易だけではなく
その技術を広く奨励する役目があったのかもしれません。

しかし、娘たちは伊勢の大神との縁は切ることができず。

 

 

 

 

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震災の津波の影響により、
社殿は新しく再建されていますが、

いまも、これからも、ずっと工事中。

終わることがない、この光景。

 



名取の上余田(名取老女は下余田)の名を見つける。

 


 

老女さんのもうひとつの顔、「旭(あさひ)」は、
栗原の高清水に登場する旭神子。

この偶然は、何かを伝えていますね。

名取老女の守家の遠祖も斎藤さんで藤原北家の系譜。(武蔵斎藤氏)
北家:藤原利仁の子、叙用(のぶもち)は斎宮の管理監督をしていたそうです。

利仁は、悪路王退治の伝説のモデルですから、
いろいろありまーーす。

 



フツフツとする空。

その藤原家の鎮魂を支えているのが、
鹿の角で火と水であるから、うまくできている。

 



帰る頃、晴れてきました。

 



遠くに何があったか。

 


 

五柱からみえる鹿は、寂しいものです。

 



歴史は偶然に起されたものではなく、
必然です。

そして震災も歴史のひつとして
記録されるのです。

 



※アクアイグニスの意味。
ラテン語で「アクア」は水。
イグニスは、「火」を意味する。
かつて鹿が傷を癒していたという湯の山温泉より
火と水の温泉、角がシンボルとなった。




ところで、神明社ばっかり参拝していたからか、
不思議な夢をみました。

神明社について、気になることを書いてみます。