最後に、この話と二本松の木幡山には、
忌部の痕跡があったのでは?という話を。

宮廷のための祝詞というのがあったのですが、
それが「オオミヤノメ(大宮売命)」という存在。

この方が気になった。

まずは、基本の忌部のこと。
 

 

 忌部とは

忌部についての詳細は、こちらのサイトを参考に。
 

 

結局、リンクはる。笑
 

サイトから参考にさせて頂きますと・・・

「『忌部氏』とは、古代ヤマト王権の宮廷祭祀、祭具製作、宮廷造営を
掌った名門氏族。

忌部とは、穢れを忌む集団の意味があり、慎みもって神事で穢れを取り去り、
身を静めることを言うそうです。

祖神は、天太玉命。
中央忌部は、奈良県橿原市忌部町天太玉命神社を根拠とする。

 



※天太玉命神社の本殿

天富命(あめのとみのみこと)という人がおり、
「太玉命(あめのふとだま)」の孫とされる。

神武東征において橿原宮を造営し、
阿波国に続いて房総(現在の千葉県)開拓をした。

天富命に率いられて関東に入植し、麻、穀を植えたそうですが、
穀が実った地は、結城郡(茨城県)と呼び、
麻が良くなった地を総国(上総、下総)と呼びました。

阿波忌部が住んでいる所は、安房国となり、
太玉命を祀る安房社を建てたと伝わります。

各地に品部(ともべ)=職業集団となる忌部氏を率い、
「八色の姓」で、中臣氏は朝臣姓、
忌部氏は一段下の宿禰姓となった。」


忌部野ルーツは、
東アジア・東南アジア方面からの照葉樹林文化
をもつ焼畑系海洋民の流れの中に抱合されるとの事。

焼畑とは、「猿田彦命」でもあるので、
猿田彦と忌部は、深い関係にあったと思います。

これは、後になってオオミヤノメとも繋がるかもしれません・・・?

代々、大嘗祭での衣類は、
阿波忌部(三木家)が継承しています。

<地方忌部>

・讃岐忌部(香川県)― 竹や盾をおさめる。
    祖神:手置帆負命(たおきほおひのみこと)
・出雲忌部(島根県)― 玉を貢納
    祖神:櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)
・紀伊忌部(和歌山県)― 木材を貢納
    祖神:彦狭知命(ひこさしりのみこと)
阿波忌部(徳島県)― 麻、木綿(ゆう)を納める
    祖神:天日鷲命(あめのひわしのみこと)

・筑紫と伊勢忌部(福岡・三重県)― 鍛冶全般
    祖神:天目一箇命(あめのかひとつかのみこと)


阿波忌部は、生活文化、産業の基盤になっており、
養蚕が関係する場所には、阿波忌部が関わっている事が多いそうです。
また、忌部を「斎部」といっていることも。

山形県南陽市の漆山神社は、

讃岐忌部の手於気穗於威命(タオキホオイノミコト)を祀る。

 


 

他、諏訪大明神、
比古佐槌之美古止(ヒコサツチノミコト)
陰陽五行神、薬師如来、聖徳太子を祀る。

すぐ隣は「鶴の恩返し」発祥地。

 



専門家の説ですと、秦氏に関係深い塗物の材料の
ヌルデ(漆)を持ち出して、秦氏と聖徳太子の
密室な関係を伝えたかったのではないか、と。


※漆山神社は村山市にもあります。

 

山形県南陽市漆山神社の聖徳太子

 

 

 

 フトダマとは?

 

忌部が祖とする天太玉命(フトダマ)は、
記紀により漢字が異なるので、どんなものかわかりません。

なので、知っている範囲のみ。

天太玉命神社をみると御祭神は、

天太玉命(あめふとたまのみこと/あめのふとたまのみこと)
大宮売命(おおみやのめのみこと)
豊石窓命(とよいわまどのみこと)
櫛石窓命(くしいわまどのみこと)



『古事記』=布刀玉命と「布」と「刀」を入れている。
『日本書紀』=太玉命。天がない。

『古語拾遺』では「天太玉命」としており、
こちらが忌部がいうフトダマとされています。

岩戸隠れの際、思兼命と天児屋命が登場し、
太占(ふとまに)が重要とされ、
それを行う斎部氏(忌部氏)がいたと言われます。

 



太占とは、亀トといわれ古代祭祀貴族、
ト部(うらべ)が行ったもの。


『古事記』では、「玉祖命」とあり、
天児屋命と布刀玉命(ふとだま)、
アメノウズメ、イシコリドメの5人が登場しています。

「玉祖命(たまのおや)」とは、
玉造部の祖神とされ、『日本書紀』にも同じように記されており、
「玉造り部の遠祖・豊玉神」が登場します。

天孫系で、
岩戸隠れには、「玉」争いみたいな感じがあり。

『記紀』では、天児屋命が玉を操るのに重要だったが、
『古語拾遺』では、フトダマが中心的役割があったと言う話。

 

 

 斎部を見守る大宮売命

 

さて、気になる名前では「大宮売命(オオミヤノメ)」
この女性は、稲荷の女神と同じ気がする。

「記紀にはない」
ことが気になったので調べてみると・・・

『古語拾遺』に大宮売神(命)とあり、
伏見稲荷大社では大宮能売大神とある。
宮殿の内侍とのこと。


『延喜式』の大殿祭(おおとのほがい)の祝詞というのがあります。
大祓の祝詞の一部。

 

こちらにのってます。

 

 

その内容は、「皇室などに向けての祈祷」のようです。

皇居に鎮座して親王や諸臣たちが過ちを犯すことなく
心安らかに仕えられるよう見守る神である
とされている。

※後から宮廷に祀られた丹後の人らしいです。

 

起源については、『古語拾遺』に、
斎部氏の祖太玉命が斎斧をもって材料を伐採し、
手置帆負命・彦狭知命と瑞殿を造営した
ことなどが記録されているとの事。


宮殿の人格化とも女官の神格化ともいわれ、
君臣の間を取り持ち調和を図る神なのですが、
旅館や百貨店の守護神・・・というのが面白い。

商売上手?

でも稲荷三神の配神にもおり、
稲荷とも深い関連があると言われる。

このことから、秦氏の娘とか親族なのでは?と思った。
忌部と秦氏が同族である理由。

「記紀にはない」ことからそれも推測できます。

ネットで調べるといろいろ出てきますが、
御膳ともあるので、飯炊き女っぽいなぁ。

その祝詞の大殿祭の中で、

「大宮売命と御名を申す事は、
皇御孫命の同殿の裏に塞り坐して、
参入り罷出る人の選び知しめし」

「皇御孫命」とは、ニニギノミコト
その「裏に」いるってとこが気になるねぇ。

 

 

 木幡山の秦氏と忌部

 

さて、難しいので最後は、この話を。

天太玉命神社に祀られていた「櫛石窓命」のこと。

(くしいはまとのかみ/くしいわまとのかみ)
天照大神を神殿に移し、その殿門の守衛を守護したと言われます。

 

 

木幡山にある隠津島神社にもあるのです

櫛石窓命=櫛磐間戸命(日神の出現)と同じ。

豊と櫛がある。

 



祝詞に関して、阿波忌部・秦氏は中臣氏について、
物部氏が退去したと想像。

秩父に秦一族はきてますから、秩父も手力男だし、
ルーツは九州らしい。


 

天の岩戸で岩を投げた人(扉を開けた人でもある)

ワカヒコが秩父彦説もあったりして、
そのワカヒコとは、アジスキタカヒコネと「そっくり」だと。

紀国造や大伴連の祖神とあるため、
養蚕を伝えた小手姫が大伴氏ということから、

「木幡山」が繋がる。

これは、天の岩戸の神々を意識しているような。
五色だし・・・

 



阿波忌部の痕跡は、南相馬を起点に西へ移動すると、
木幡山があり「宗像三女神」がある。

ということで、「忌部から秦氏に変わっている」と思う。
「旗」だし。(旗を掲げて登場する天日鷲命のこと)

 

だけど、これを見る限り、

「チベット」やヒマラヤにあるタルチョーにみえる。

戦うこととは一切無縁。

 


忌部から秦氏に継承されている痕跡が
宗像三女ということにあるようです。



そして機織を伝えた小手姫もまた、
大宮売命に変わっていると思う。
※大宮神社のこと。

 



なるほどね~~。

千葉県にいった忌部が祀っている
安房神社の末社が、

市杵島姫命 (イチキシマヒメノミコト)なのです(海の神)
だから、大宮神社もイチキシマヒメ。


それに、栗原の駒形根神社にも「玉祖命」が
祀られていた・・・

 

 

 椿の大宮神社が伝えること

 

福島県飯坂町に伝わる小手姫の機織で、
大宮神社のことも気になって書いていました。
「飯塚」になった由来。

 



由縁が「大同ニ年」なので蝦夷征伐を意識してます?

「北畠顕家」の名があるので、

霊山からきてますね。


建野に勧請された大宮神社は、
三女神を木幡山に遷座させる際、
お供えをしたところに塚を置いて「飯塚」と称したそうです。

1161年に大宮神社を飯塚に遷宮したとき、
村の繁栄を願って飯塚の「飯」と建野の「野」を
とって飯野村とした伝承がありました。
(伊達郡沿革史)

「大宮」という名前ですがここも
木幡山の神と関係しており、
宗像三女神を祀っています。

UFOがよくでる飯野町にありますが、UFO
「河内明神」の石碑は、(中央)

 



「猿田彦命(伊勢国椿大社)
からきているそうです。

それを菅の船というのです。
=菅船神社(郡山市)

 

椿大社の猿田彦が主神で、

それに並び天照大神・月夜見大神

 

しかも、椿大社の猿田彦を勧請したのは、

采女伝説のある「額取山」なのだ!

それを菅の船と呼んだ♪

 

すごい!

けど、なぜ河内?

 

隠された福島がみえてきます。


また、興味深いのが栃木県日光にある「石裂山」
の石碑が2体もあったこと。

 



主人が宇都宮出身なので、
なんども「鹿沼」へは訪れていました。

石裂山は「鹿沼」にあり、
ここが「大嘗祭とあらたえ神事」をする所なのです。


つまり、鹿沼にも阿波忌部が到着しており、
この地で大麻を栽培できる理由は、
古くから三木家と関わっていた一族が居住していたから、
皇室から認められている所なのです。

何度かやまちゃんを通して大森さんから
精麻を頂き、度々やまちゃんと東北の神社へ奉納してました。

石裂山について、
鹿沼市入粟野地区によれば、賀蘇山神社が鎮座。

原初の神である「天御中主を始め」
月読命、武甕槌命という天孫の神を祀る。


ということで、機織を奨励してきた秦氏の痕跡があるから、
忌部とも繋がると思います。

大宮神社も「オオミヤノメ」からとっているような気がするけど・・・

あと、小手姫はすぐ近くに小さくお社があります。照れ

秦氏が忌部の変わりに君臨した痕として
とても関心ある話で、
タケミカズチと関わる秦氏というのは、
中臣氏のパトロンだったりするわけですな。

だから、大宮神社に石裂山を祀る理由として、
「鹿沼」にも阿波忌部がたどりついた
 

「麻」と共に小手姫が「絹」を伝えている、

と思います。

その麻(国津)と絹(天孫)を融合したといった

話を聞いたことがあり、
「倭文(しとり)」と呼ばれることも。


「しずおり」のことで、麻やかじのきなどの繊維を
織った古来のもので、それを「機織」の作業で現わしている。

だから、カカセオは織物に編んで鎮魂した、
という話になっている。

 



南相馬の天日鷲が元は「鷲宮」

その鷲宮(埼玉)が、「河内」とあることを

ごり押しで繋げてみると・・・・


この倭文氏(部)が石上神宮
他の玉造部と共に納めた剣があると言われ、
これを重要視していたのが、

忌部と秦氏なのかもしれません。

あ、密かに物部氏がいた・・・


その融合が二本松にあったということですね。(妄想)

倭文氏について、百済系とも言われるので、
坂上家が継承し、後に源氏が戦勝神として祖神にしている。

そんな背景がみえてきます。凝視

小手姫は大伴氏ですからね。
ここも忌部の地とみて良いと思います。

 

 

 自分の内を磨くと玉になる

 

いろんなメッセージがくるのですが、

まだいろいろ考察できそうですけど。ギブ。大あくび


藤原家の貴族文化が栄えますが、
大宮売命の大祓は藤原家のための祓えだったかもしれず・・・。
中臣氏がそこも考えていたのかもしれない?


太陽を出す方法を編み出したのは、
天児屋命か太占のどっち?という事なんだと思います。

鏡を「自分」に向けるか、「他人」に向けるか。
内的な考えで。

自分の内から、外へ出たという天照大神は、
勇気が必要だったかもしれない。
一人では行えない大きな行事。

 

はじめて「己(おのれ)」を意識した。

己巳(みみ)の漢字は、

開いているのと、閉じている。

 

それが蛇=カカ。

天の岩戸の深い意味ですね。

伊勢神宮は、アマノコヤネの方を重要視してますね。
天照の神殿(伊勢神宮)の守護神になるよう
命令されたと『日本書紀』にあります。

忌部は、天太玉命=太占が中心。
→神の意思を問う=自分の意思に従う世界

内的だから「見えない」

「櫛玉」には、二ギハヤヒの名前にも潜んでいると。

玉祖命を祀る玉祖神社が山口県防府市にあります。
岩戸隠れの際に勾玉を作った神を祀っているそうですが、
後に八幡神にしているので、

秦氏を根拠としたい思惑が見えてしまう。(秦氏も分断)

 

八幡を置いている影は、

私が期待している秦氏とは違う氣がする。

 

その秦氏は、伏見稲荷ですよね?

ああ、
秦伊呂具(はたいろぐ)は伏見稲荷神社にいますよ。

 

稲荷にもフルフルがっ!

 

 

 

(画像)Aさんからの提供。

 

「丸山」=和邇氏。


伊呂具さんは、「餅が白鳥に姿を変えて山へ行った」の伝説の人。

白VS黒

秦氏は白。

妄想すっぺ、と思ったけど、餅しか入ってこなかった。ニヤニヤ

(あんまり餅は食べない~)

 

征伐する秦氏と、平和を望む秦氏。

平和を望んだ秦氏は、東北へ。

結局、伊呂具(イロコ様)がすべて仕掛けていた
物語なのかもね~。てへぺろ

ということで、長い妄想になりました。

最後まで読んで下さった方々、

新たな7月をお迎え下さい~。虹


おしまい。