今度は、岩手県の縄文遺跡を紹介。
丘の上にたつ縄文遺跡。
岩手の山々を見ながら縄文人は美しい所に住んでいたのですね~。虹
(2016年7月の記事から)

 



7年も前になるのですが、
ここはよ~く覚えています。

駅から歩いていった!オエー

レンタサイクルがかりれなくて、
仕方なく8キロは越えていたかな。
片道1時間以上かけて歩いていった所です。凝視

田んぼを通って雄大な北上川を越えて、
たどりついた縄文遺跡。

帰りは、貧血起しそうで、
しんどい行脚でした。
(良い子は真似しないでね)

見えないけど、蝦夷がいる・・・。
そんな所でした。

 

 

北上川

 

 

安倍氏の伝説がある柵。ひよどり?

でも、鬼伝説があるところに
素敵なかわいいカフェがあるんですよ~。

「ミズサキノート」

 



帰りにお店にたちより、オアシスでした。ラブラブ

 

 

 

北上山系をめざして

 

蝦夷たちは、
北上山系を守るために、北上川を目指してきました。

守りたかったものが何であるか、
「森と海の関係」という深い話が、
今は海の底に沈んでいる。

ここで祈りが捧げられていたと思われる場所だけに、
自然と北上山系に感謝の気持ちがでてきます。

また、これからの北上山系の保護をお願いしてきました。

 



北上山地の形成の中で、

「このうちもっとも古い先シルル系(含炭酸塩岩)
基盤を持つのは南部北上帯である。

奥州市前沢区の生母の北部と奥州市水沢区黒石町に
広がる母体変成岩類、陸前高田市の氷上山を
中心にした氷上花崗岩類などがあり、
日本の中でも最古の部類に属する地層である。」
(Wikipedia)

私がこの遺跡に興味をもったのは、
立石のみ花崗岩を用い、周りの石は花崗岩以外の石を
使っているルールがあったこと。

 



なぜ、立石には必ず花崗岩なのかね?

わからないな~。
振動説もあるけどね。
太陽は実は振動していて、星辰(せんしん)崇拝みたいなの。
その熱が、岩に伝わって振動する説。・・・難しいね。

 

 



国指定史跡:樺山縄文遺跡について。

「縄文中期の配石遺構群を伴う前期~後期にかけて
約4,5000年前の集落跡。

石組み群は、丘陵地西側に緩い斜面部から平坦部にかけて一帯に広がり、
不規則に分布している。

 



個々の石の組み方や並べ方は、花崗岩の細長い川原石一個をたてた周りに、
数個の山石を放射状に並べたものを典型としている。

石組みは少しくぼんでいるが、土こう(穴)といえるものではない。

 



樺山遺跡の時期以降の代表的なものとして、
秋田県鹿角市の大湯環状列石がある。

 



これは縄文時代後期のもので、石組みの中の日時計とよばれているものが、
樺山遺跡の石組みに似ており、樺山遺跡の祖源とみられる。

これらの意味は、以前から墓地としてみる説と
祭り場とみる説があるが、北海道地方では墓地がほとんどであり、
そのほかの地方では両者があって一様ではない。」

 

 

石組みの下の土の隣分の分析をしたが、
墓としての確かな証拠は得られなかったそうだ。

 


日時計というのは、夏至や冬至の時の太陽の光の
長さを計るものですが、その光の影が
「短剣」とよばれていたのが、古ヨーロッパの配石にある
のです。

それと樺山遺跡が関係しているかわかりませんが、
立石は太陽の光の影でおきる剣であった。

 

「ケルトと縄文は同じ」

アイルランドを例に。

 



「山に剣をつきさすのは、日時計の影をみる。
剣の形が夏至の太陽光線になるという光の剣。」
※「大地の記憶 古代遺跡の暗号を読む」より

 



※ホピの太陽、地平線カレンダー

「熊の氏族」タラホンシの家の屋根から。

 



円形になっていたと思うので、住む場所と祈りの場(墓場)を二重螺旋にし、
墓は西側におき、霊山まで魂を峰々まで流してくれるような形。
そういう妄想をしたくなるのですが…。



世界の遺跡について研究しているポールデヴェルという方の
「大地の記憶 古代遺跡の暗号を読む」から、

「立石や支石墓(ドルメン)は、BC54~24年ユーラシア大陸で
早くに始まっていたモニュメントがある時、

何かがおこり人類は周期的に
大地を漂流していた

ひとつに留まることなく。採取漁労の生活を。

彼らの意識は、現代人と比べるとはっきりした境界はもたず、
環境全体の中にぼんやりと溶け、この時代の人たちは、
意識が夢の状態に近いもので
あったと多くの著述家が述べられる。


その後、人々は、放浪を止め、定住生活をし農耕と牧畜をはじめる。
巨石や土を材料とする遺跡がヨーロッパ各地で建てられる。

ここにひとつの天秤があるとして、
一方の端に自然との深い繋がりを、
もう一端をテクノロジーや科学的思考を置く。

この2つのバランスを取り持っていた。

しかし長くは続かず。

この変化は女性原理から男性原理へ変化し、
組織化され好戦的になっていく。」

 

 

とっても重要なメッセージです。

 

 

 

森と海

 

和賀岳も広大なブナ林とミズナラの巨木が多く、八幡平もそうです。

先住民(縄文人や弥生人)が守る森には、豊かな命を育む循環があり、
また日本の海は、世界一豊かで世界一生き物が多いということがわかっています。

 



バクテリアから哺乳類まで海にくらすあらゆる生物を調べあげたところ、
日本の海はおよそ3万4000種の生き物が確認されている。

日本へ流れる海流や、海の珊瑚もそうですが、海が美しいのには、
日本の森の土壌にも深く関係しています。

樺山遺跡の他にも、和賀岳周辺には縄文遺跡が確認されています。

樺山の森のすぐ北(3.5キロほど)に、
国見山があります。ここに珊瑚岳という岩もある。

海と森が一帯となっているような山。
この山によって樺山が守られた感じもするのです。

河北出版:「日高見の時代」によると、
国見山は、鳥海柵という安部一族の再重要拠点だった所。

 



奥六郡は、文化と教育のメッカでその支えとなっていたのが国見山でした。
古くは戸木峯とよばれ、和賀川と北上川が合流する地点にあります。


その麓に極楽寺という寺院があり、薬草園が存在していたこと。

南限、北限植物、など古代中国からの輸入植物など600種以上が採取されている。
安部氏は極楽寺の経営を行い、今でいう総合福祉施設のような場所でした。
国見山を守るために、鳥海柵を設け防衛をしていたと。

太平洋側の厳しい「やませ」

 



東北地方は広葉樹林が多い。

西の照葉樹林は栗などの木の実を多く摂取できたために、
お米が必要(雑穀など)
な食事に変化してきた。マタギ文化の狩猟から稲作文明へ。

また寺社建立や灌漑用水や治水工事の開拓で、稲作をすすめたために、
森林伐採が進んだ。


東北の自然は厳しいです。
エミシ征伐の拠点には、環境があると思います。

太平洋側の関東と東北は、「やませ」の影響から梅雨後の寒冷の風が吹くので、
この頃は、稲作に適さず難しかった。
最もやませの影響を受けたのが、北上盆地、仙台平野、福島県浜通り。

このあたりは元々狩猟生活か、畑作、牧畜を行っていたといわれています。

農業をすすめる朝廷にとって、一番奮起していた為、稲作に反対した人も
多かったと思います。
 
先住民の中でも家族を養うために、農業をする人も増えていきましたが、
その結果、森と水の枯渇が進んでしまったのです。

わずかこの数百年の間で。
狩猟生活は1万年以上続いたといわれます。
それでも狩猟をやめなかった人々がいる。
その人たちの多くはマタギの文化をもっている。

 

 

チャンレンジャーな人がいれば、
縄文遺跡まで歩きたい方への道のり・・・

金ケ崎駅からの場合、4号線の道は遠いので、最短コースを。
駅おりて100mくらい進むと信号あり。

信号を左折、しばらく歩くと分岐あり。

「アテルイの里へようこそ」の看板を右へ。

 

 

※ちなみに、スマートなアテルイがいます。指差し

そのまま道なりに進みます。
(保育園通過)小さい川が流れ橋を渡ると、2又の道あり。

 



細い道を右へすすむ。
田んぼが広がり民家へ行く細い道を進む。(途中に春日神社あり)
そのまま進むと田んぼにでます。

田んぼを出たら、あぜ道を車道へ向かって歩く。
(このへんgooglemapでも表示されますが迷います)

直進より、左へ進んで下さい。

車道を出たら255号線へ向かいます。

 



255号線ぶつかったら右折。
大きな橋があるので北上川を渡りそのまま直進。

新幹線の高架下を通り、信号渡り坂を登っていくと、
まもなく縄文住居が見えます。

(この説明でたどりついた人は、すごいです。笑)

涼しいときに行って下さいね・・・

 

※おすすめのカフェ

 

 

次もおすすめの所を紹介しまーす。